マスコミに登場するわけでもない。人気タレントを生んだ町というわけでもない。坂東太郎こと利根川に面した群馬県の小さな町である。その昔は群馬県邑楽郡永楽村赤岩といった。リトルブラジルの大泉町は隣町、館林市からバスで30分のところにある。ゆかりのある人でなければ一生訪れることもないだろう。ここには母の実家がある。そのため、私は小学校3年の頃から中学までの6年間、毎年夏休みには3週間ほど滞在していた懐かしい村である。しかし、村が町になり姿はすっかり変わってしまった。 母から聞いていたことがある。明治の小説家「田山花袋」が逗留し小説を書いた川魚料理屋がある。古墳がある。本家にはハーモニカの名手「宮田東峰」に嫁いでいった人がいる。母の祖父は第1回群馬県議会の県議だった。子供の頃はあまり気にも留めていなかった。今回いとこの法事があってこの町を訪れた。2003年9月14日。残暑の厳しい日曜日だった。 |
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【千代田町HPより】 大正6年3月赤岩付近の雰囲気と利根川沿いの「新田家」が大変気に入り、次の歌が生まれました。 「用水にそひゆくあさの路寒し かしこにここに梅はさけども」 (赤岩の八幡神社境内にある歌碑にこの歌が刻み込まれています。) 「冬の川すきとおりても見ゆるかな およぐあひるの水かきのいろ」 その後、当時利根川沿いにあった旅館「新田家」で滞在し、そこを舞台にした「河ぞひいの春」を発表したのは、大正8年のことです。当時、花袋を見た人も多く、千代田村誌にそのことが記述されています。「その頃は人力車に乗ってよく赤岩に来たという。<新田家・増田せき氏報>(新田家に滞在し)原稿を送るためか郵便局へよく姿をみせたという。<筑比地ミノル氏報>」 こよなく赤岩や付近の利根川を慕い何回となく訪れたのは、大正7年の「山行水行」中に「赤岩のうまい鯉をたべる」と書いていることや、大正12年出版の花袋紀行集「赤岩と妻沼」の中の「赤岩の町がまるで世から隠れたように眠ったように淋しく残っている。春は桃の花が咲き、秋は欅(けやき)の紅葉で侘しく(わびしく)色づく町・・」と書いていることからもうかがえます。 |
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昭和31年。中学2年の夏休み。「しまや」といった西村家の軒先で。 それから47年。3人のいとこは還暦を迎えてしまった。私の弟も50を半分過ぎた。同じポーズで記念撮影をした。母はもういない。西村の家も住む人もなく朽ち果てている。一番最後まで住んでいたいとこの中学時代の学習ノートが残っていた。彼女も今は国立市に住んでいる。東大大学院に通う彼女の娘が感慨深げに母のノートを見ていた。 ※47年後は47 Years Laterが正しいと指摘された。m(_ _)m |
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