マスコミに登場するわけでもない。人気タレントを生んだ町というわけでもない。坂東太郎こと利根川に面した群馬県の小さな町である。その昔は群馬県邑楽郡永楽村赤岩といった。リトルブラジルの大泉町は隣町、館林市からバスで30分のところにある。ゆかりのある人でなければ一生訪れることもないだろう。ここには母の実家がある。そのため、私は小学校3年の頃から中学までの6年間、毎年夏休みには3週間ほど滞在していた懐かしい村である。しかし、村が町になり姿はすっかり変わってしまった。
母から聞いていたことがある。明治の小説家「田山花袋」が逗留し小説を書いた川魚料理屋がある。古墳がある。本家にはハーモニカの名手「宮田東峰」に嫁いでいった人がいる。母の祖父は第1回群馬県議会の県議だった。子供の頃はあまり気にも留めていなかった。今回いとこの法事があってこの町を訪れた。2003年9月14日。残暑の厳しい日曜日だった。

赤岩山光恩寺。千代田町にある最も古いお寺で、この地は古墳等も点在していることから早くから文化が開け、その中心的な存在としてこのお寺があったと推測できます。群馬名所百選にも選定されています。
寺伝によると雄略天皇が穴補宮のために全国に建立された9ヶ寺の一つとされ、また、推古天皇33年高麗王より大和朝廷に貢された恵潅僧正が当地に来住し、この光恩寺を開かれたといいます。のち、弘仁5年(814)弘法大師が密教弘通の場として再興開山したと伝えられている関東屈指の古刹。
【千代田町ホームページより】

法事は、光恩寺で行われた。住職は今回法事を行ったいとこの中学の先輩だそうで顔なじみだった。

光恩寺の境内にあるいわくつきの長屋門。千代田町の対岸に埼玉県妻沼町がある。日本の女医第1号「荻野吟子」(渡辺淳一作「花埋み」の主人公)の実家は妻沼の庄屋だった。その家の長屋門が明治の頃になぜか移築され鎮座している。白壁は最近塗り替えられたらしく午後の強い日差しに映えてまぶしかった。

川魚料理「新田屋」。もともとは利根川の堤防の下にあったが、30年以上も前に現在地に移転したということだった。これが「田山花袋」が逗留した料理屋で、土地の人の祝儀不祝儀の際に利用される。この日、法事の会食以外に同窓会が開催され、賑やかだった。

千代田町HP中の写真。

当日の新田屋の料理。名物の鯉の煮付け、鰻の蒲焼が出た。うどんはあまり太くなく私好みであった。その昔、祖母が麦を石臼で引きうどんを打ってくれたことを思い出した。祖母は西村イチという。

「田山花袋」。明治4年館林に生まれる。14歳まで過ごし一家で東京へ出る。明治40年、大胆な描写の「蒲団」を発表、文壇に大きな反響を呼ぶ。
【千代田町HPより】
大正6年3月赤岩付近の雰囲気と利根川沿いの「新田家」が大変気に入り、次の歌が生まれました。
 「用水にそひゆくあさの路寒し かしこにここに梅はさけども」
 (赤岩の八幡神社境内にある歌碑にこの歌が刻み込まれています。)
 「冬の川すきとおりても見ゆるかな およぐあひるの水かきのいろ」
 その後、当時利根川沿いにあった旅館「新田家」で滞在し、そこを舞台にした「河ぞひいの春」を発表したのは、大正8年のことです。当時、花袋を見た人も多く、千代田村誌にそのことが記述されています。「その頃は人力車に乗ってよく赤岩に来たという。<新田家・増田せき氏報>(新田家に滞在し)原稿を送るためか郵便局へよく姿をみせたという。<筑比地ミノル氏報>」
 こよなく赤岩や付近の利根川を慕い何回となく訪れたのは、大正7年の「山行水行」中に「赤岩のうまい鯉をたべる」と書いていることや、大正12年出版の花袋紀行集「赤岩と妻沼」の中の「赤岩の町がまるで世から隠れたように眠ったように淋しく残っている。春は桃の花が咲き、秋は欅(けやき)の紅葉で侘しく(わびしく)色づく町・・」と書いていることからもうかがえます。

堂山古墳。六世紀末頃の当時の有力な豪族の墓と思われる。
赤岩周辺は関東平野の平坦地だから、土地が隆起していれば「山」と呼ばれる。母の実家は堂山の下に畑があり、祖母が鎌をもって草刈に出掛けていたことを憶えている。また、3人のいとこは(みな同じ歳)、私の父に連れられてこの山の上で写生を行ったことがあった。母の姉の娘の腕が確かで父親から褒められていた。母の弟の子と私は遊びたくて絵には夢中になれなかった。従妹の作品はその年の作品展で受賞したと、今回の法事の席で聞かされた。

利根川の渡し舟。私が子供の頃は櫓こぎの舟であった。現在、千代田町赤岩へは羽生から昭和橋、行田から利根大橋を渡って入るが、車が普及していなかった昔は館林からバスか、熊谷からバスで葛和田へゆきそこからこの渡船で赤岩へ入った。対岸に舟がいると大声で呼べば来てくれた。
巣鴨に住んでいた母は私を産むために赤岩に里帰りしていた。生まれたばかりの私に会いに上野からこの渡船に乗って来たことが、父の残した日記に書いてある。
また、赤紙1枚で南方ハルマヘラ島に出征した夫を、私の母は実家で待っていた。村役場の保健婦をしていたそうだ。旧姓を西村保子という。父は終戦後間もなく無事帰還した。そのときもこの渡船で母に会いに来た。

従兄弟の家。彼はいま、隣町の石打に住んでいる。仏間には彼の父と群馬県会議員だったひいじいさんの遺影が飾られてあった。私の母の弟の西村栄作氏は、大日本帝国陸軍の最大汚点「インパール作成」で戦死した。そのとき妻タツは栄作氏の子供を宿していた。だから、従兄弟の正一氏は父の顔を知らない。
兵隊を消耗品として投入した対英アラカン高地作戦は参謀本部の認識の甘さが指摘されている。
     
昭和31年。中学2年の夏休み。「しまや」といった西村家の軒先で。
それから47年。3人のいとこは還暦を迎えてしまった。私の弟も50を半分過ぎた。同じポーズで記念撮影をした。母はもういない。西村の家も住む人もなく朽ち果てている。一番最後まで住んでいたいとこの中学時代の学習ノートが残っていた。彼女も今は国立市に住んでいる。東大大学院に通う彼女の娘が感慨深げに母のノートを見ていた。
※47年後は47 Years Laterが正しいと指摘された。m(_ _)m

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