鋤焼き

 明治三年から九年にかけて出版された「西洋道中膝栗毛」は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の趣向を模した滑稽本で、初代弥次郎兵衛・北八と同名の孫がロンドンの万国博覧会に行くというもの。仮名垣魯文はこの作品で、最後の江戸戯作文学の作者となった。後に、「仮名読新聞」「魯文珍報」を創刊し新聞記者としても活躍する。
 彼は文明開化期の混然とした世相を描くのを得意とし、明治四年には同じく滑稽本「安愚楽鍋」を著している。サブタイトルに「牛店雑談(うしやぞうだん)」とあるように、西洋文明がどっと押し寄せた世の中の動きを、当時はまだ珍しかった牛鍋を囲む庶民の目を通して描写している。
 日本では生類を哀れむ仏教の教えもあって一般には食肉の習慣はなかった。しかし、いつの時代も禁断の味を求める人々が大勢いたらしく、飛鳥時代の六七四年、天武天皇は家畜殺傷の禁断令を施行。獣肉、鳥肉の食用を禁じた。以後江戸時代に至るまで幾度となく同じような制令が発せられた。江戸末期にはその風習が次第に薄れ、明治になると、ざんきり頭で牛肉を食べることが文明開化の象徴のようでもあった。
 生麦事件が起こった文久二年、横浜で初めての牛鍋屋「伊勢熊」が創業。それから五年後、江戸幕府が滅亡した慶応三年に東京・芝に「中川屋」という牛鍋屋が店開きをした。明治の初めには東京市中に多くの牛鍋屋が生まれた。中でも浅草の「米久」は大いに庶民の人気を集めたという。
 関東の牛鍋は、薄切りにした味噌味の牛肉とねぎを使い、割り下を用いて煮る。関西は鍋を牛脂で熱し肉を焼いてから砂糖と醤油で味つけをし、野菜、豆腐などを加えた鋤焼き。
 もともと「鋤焼き」の名は、鴨や猪の肉を醤油につけて、鉄製の農具である鋤の上で焼いたという素朴な食べ方からきている。『日本国語大辞典第二版』によれば、薄切りの肉(剥き身)を焼くからとも。大正時代になり、関西風の調理法が普及し、名前も鋤焼きに絞られた。
  景気は相変わらず低迷したままなのに、雑居ビルの火災。さらに世の中を震撼させたテロ事件の発生。盛り場に足が遠のく出来事に加え、牛肉の消費を落ち込ませる狂牛病事件である。
 忘年会の季節だというのに、今年は鍋奉行の出る幕は極端に減るのではなかろうか。

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