私にとって館林は懐かしい町である。小学校3年から中学3年までの6年間、夏休みになると、この駅からバスに揺られて母の実家へ行き約3週間過ごしていた。着替えの入ったリュックを背負い、宿題の入った袋をもって常磐線(現千代田線)金町駅から北千住で東武線に乗り換えて館林まで行くのだが、子供にはひどく遠い町のように思われた。時期からして当然暑いのだが、この町を通過する記憶は暗く、寒いのである。
母は実家でゆっくりすることもなく、下町の家に帰ってしまう。取り残された私は、家族から長期間離されることが、厄介払いをされたような気持ちを抱かされたのかもしれない。しかし、利根川のほとりや、灌漑用水脇の水遊びは実に楽しく、あっという間に帰る日が来てしまうのだった。
子供の頃、館林は通過地点だったので、町を見ることもなかった。現在、この沿線の東武動物公園に住んでいる。数年前、つつじを見に行った折、市役所裏の文化施設を見て回った。今回は、町中の歴史を感じさせる場所を歩いてきた。
    
東武線の昔からある駅のつくりはどこも似ている。駅名がなければ、「春日部」と間違えるだろう。両駅ともターミナルにしては、年季が入りすぎている。
    
左手が下りホーム。同じホームの先から「小泉線」が出ている。右は上り電車。

この時計は昔のままのようだ。

昭和25年の駅。館林市のHPから拝借(差支えがあればすぐに削除いたします)

駅前。画面左手がバスターミナル。まっすぐに伸びた道の突き当りが、文化施設ゾーンになる。空がすっきりしているのは、電線類が地中に敷設されているため。古河、川越、足利、加須、行田なども同じであるから、ちょっと見はみな同じように思えてしまう。大昔は、この写真の右手にバスの発着所があった。。

昭和20年代の発着所。ここから、バスに乗って母の実家に行った。30分で到着するのだが、当時はもっと遠く思えた。

戦災を免れたような住宅が健在である。近くにはマンションが迫り、神田や御茶ノ水の裏通りのような風景でもある。
館林は中島飛行機製作所が近くにあった。大戦末期にはB29の爆撃を受けなかったのだろうか?

軒先に緑を植えている。これは下町の風情だ。

街角のお蕎麦屋さん。このような店が軒を連ねていれば味があるのだろうが、山でいうと「独立峰」。地震がくれば倒壊しそうな年代ものだ。隣の洋風の白い建物と好対照。

隣の家はレストラン(だった)。定休日でCloseしているのではない。チューダー朝スタイル(かな?)を模した印象的な建物だが、もう2度と客を迎え入れることもないのだろうか?

駅に比較的近い裏通り。ここは館林市が推奨する「まち歩き」コースのスタート地点でもある。
「毛塚記念館」。江戸末期に古河から移住した人がここで酒造業を始めた。屋号は「丸木屋」。昭和29年「分福酒造」と改称。平成10年に登録文化財となる。館林旧城下に現存する数少ない町家のひとつだそうだ。現在、1階はギャラリーになっている。

手塚記念館をアングルを変えて撮影。隣にはマンションが迫っている。新旧2つの建物が唐突に向かい合っている。日本家屋の周囲をグリーンで囲えばよかったのに。

表通りと平行して駅まで続く直線道路。わたしの住む町は、くねくね道が多いので、こういう場所を見るとうらやましいですね。

散策コースのガイドマップ。高価そうな銘木に描かれている。
     
職人が住んでいた地域。城下町らしい。

駅前からの直線道路をどこまでも行くと、皇室御用達うどん屋さんがある。重厚感のある店内。前回はここで食事をした。
このお店の左斜め前の邸宅が…

ワンブロックにもなろうかという、長いコンクリートの塀が続く。ここが美智子妃殿下のご実家、正田邸。広大な敷地に、大屋根の大きな家が建っている。

思わずのぞき込む。

年甲斐もなく表札の前でミーハー記念撮影。防犯カメラが門の左右にあった。扉にはセキュリティマークも。
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館林市のホームページによると、「まち歩き」コースはまだ続く。武士の居住地だった「旧鷹匠町」、旧藩主ゆかりの家、見番など見所があるのだが、時間の関係で回れなかった。
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徳川綱吉が将軍になる前の20年間を過ごした町。明治の文豪・田山花袋が14歳まで過ごした町。美智子皇后のご実家のある町。日本初の女性宇宙飛行士・向井千秋氏を生んだ町。とにかく館林は話題に事欠かない。市民もたぶん誇り高いんでしょうね。近いこともあるし、また裏道散策をしたいと思う。
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