千葉県といえば海のイメージが強いが、北は盲腸のように埼玉県、茨城県に深く食い込んでいる。初めて関宿を訪れたとき、ここが千葉県とはイメージしにくかった。
その昔は下総国で内陸国だったが徳川幕府の瓦解後、廃藩置県の紆余曲折があって、現在のスタイルになった千葉県最北の町である。江戸時代、利根川の支流として江戸川が生まれ関宿藩はその要の位置にあり、水運で栄えた町であった。明治以後鉄道の開通により、関宿界隈は完全に取り残されることになる。水運の衰退を恐れ、鉄道の誘致に積極的でなかったことが原因していた。最近は簡単に行けるが、自家用車が普及するまでは、まさに陸の孤島であった。免許を持たないお年寄りは、現在もバスに頼らなくていけない。都心に出ようとすれば野田か東武動物公園まで行き、そこから向かうことになる。
千葉県の最果ての町であることに変わりはないが、最近異変が起こった。平成の大合併により、千葉県東葛飾郡関宿町は、平成15年6月6日、野田市との合併により千葉県野田市関宿となった。
徳川譜代大名として関宿藩は城をもっていた。関宿城である。もとの城は版籍奉還後、取り壊されたそうだが、「千葉県立関宿城博物館」で昔の面影を偲ぶことができる。もともとあった場所はスーパー堤防の下に埋もれてしまったらしい。
天守閣からは利根川と江戸川の分岐が望める。私は子供の頃常磐線の鉄橋から金町浄水場がある江戸川付近が遊び場だった。ここが江戸川の入り口かと思うと感慨深いものがあった。

私が高校生の頃、橋幸夫の「潮来笠」が流行った。その3番。
「旅空夜空で いまさら知った
女の胸の 底の底
ここは関宿 大利根川へ
人にかくして 流す花
だってヨー あの娘川下 潮来笠」

この歌のおかげで「関宿」という地名だけは知っていた。だが、なぜ、太平洋に近い潮来生まれの伊太郎が、こんな奥まで来なくてはならなかったのか?
渡世人だから、木枯らし紋次郎のように一宿一飯の恩義を感じながら賭場から賭場へさすらっていたのだろうか?関八州には、いろんな親分さんもいるだろうから。
足を使わなくても利根川を船で遡れば関宿へはわけなく行ける。関宿の立地と昔の役割を知って納得。
「潮来笠」の歌のヒットの翌年(昭和36年)、同じ題で大映で映画化された。
■ストーリーをかいつまむ
関宿の久兵衛の家に草鞋をぬいでいた。久兵衛の妹おみねはひそかに伊太郎を慕っているが、伊太郎はお加代恋しさに潮来へ旅立って行くのだった。
・・・取手、松戸、手賀沼など茨城、千葉の地名が頻繁に出てくる。賭場、喧嘩、助っ人、すれ違いの恋がおりなすジャパニーズ・ピカレスク・ロマン。本当好きな女性は伊太郎の生まれ故郷の潮来にいる。その女性を思って利根川に花を流すというわけね。歌の3番目も納得。

関宿城博物館の入り口にある、観光案内。平成13年撮影。

再現された関宿城。中は郷土資料館になっている。

天守閣から臨む利根川と江戸川の分岐。右が利根川。千葉県の北端。

4号バイパス五霞の工業団地を右折して関宿に入る。

太平洋戦争最後の内閣を組閣した鈴木貫太郎の生家。記念館になっている。
■鈴木貫太郎
1867(慶応3)年に関宿藩士・鈴木由哲の長男として、泉州(大阪府)久世村伏見の関宿藩飛地で出生。
1923(大正12)年には海軍大将となり翌年、連合艦隊兼第一艦隊司令長官に就任。1925(大正14)年からは軍令部長、1929(昭和4)年に予備役となった。同時に侍従長に就任、1936(昭和11)年の2.26事件で重傷を負うまで務め昭和天皇からの信任は厚かったという。
1945(昭和20)年4月7日〜8月17日 内閣総理大臣。海軍大将・鈴木貫太郎の総理就任は昭和天皇の強い意向であった。
ポツダム宣言受諾、日本の降伏を決めた後、関宿町に戻り余生を過ごす。1948(昭和23)年4月17日に没した。最期の言葉は「永遠の平和」。
   
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