花火

夏の夜空を色鮮やかに染め上げる花火は納涼の代表格といえよう。普段は活発な女性が浴衣になり、履き慣れない下駄で歩く姿が妙に艶めかしい。
 日本における花火のルーツは足利時代。種子島にポルトガル人が漂着した一五四三年、いわゆる「鉄砲伝来」の火薬である。時まさに戦国前夜。一五七五年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田信玄の子、勝頼を破った。先進の飛び道具により、一騎打ちという古来からの戦法が変わる。
 『日本国語大辞典 第二版』によると、武器としての火薬は六〇年後の一六〇三年徳川幕府樹立後、戦争のない時代を迎え出番が少なくなる。将軍職を辞した家康は、一六一三年駿府城で唐人の上げた娯楽用の花火を見物したとある。火薬の平和利用である。
 江戸の町では今でもおなじみの鼠花火・線香花火も流行する。打ち上げ花火は、瓦屋根が普及していなかったため火事の原因となった。一六四八年以降、町中での禁令がたびたび出されたという。
 場所を水際に規定されても花火人気は一向に衰えなかった。一六五九年、鍵屋弥兵衛が日本橋横山町にて花火製造を開始。元禄の頃には花火師による茶屋花火、花火船が賑わう。文化(一八〇四〜一八)の頃、玉屋が鍵屋から分家する。
 一七三二年、八代将軍吉宗の時に大飢饉とコレラの流行で多くの人々が亡くなった。その慰霊と悪霊退散のために水神祭が行われ、翌三三年から花火が打ち上げられるようになった。これが「両国川開き花火」の始まりで、今の「隅田川花火大会」の起源となっている。
 最近の花火は、これでもかというように間断なく打ち上げられる。見上げたと思ったら、今度は仕掛け花火だ。テニスの観客は首を左右に振るが、花火は上下に動かし、水上ページェントを忙しく満喫する。
 二一世紀は、パソコンのCPUに象徴されるようにスピードの時代。だが、人間の生活は「スローフード」「スローライフ」が見直されつつある。効率一辺倒への反省と、ゆとりへのささやかな復権が込められている。納涼船で、酒肴を味わい、乱れ打ちではない花火を観賞したいものだ。

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