■Profile

Name
Hiroshi Oguichi

History

昭和40年、立教大学社会学部新聞広報課程卒業。
在学中、広告研究会に在席。1年次よりコピー制作の真似事を始める。18歳の秋、コピーライターになることを漠然と思う。2年次。久保田宣伝研究所コピーライター養成所へクラブから派遣。銀座の夜の面白さを体験してしまった。卒業と同時にあこがれ銀座の読売広告社へ入社。同期入社20名。40(しまる)会という同期会をつくる。1年目は営業だったが、上層部へ直訴。2年目より制作部へ配転。念願のコピーライターとしての1歩をふみ出す。同じ部に広研先輩の遠山さん(現・川上さん)がコピーライターとしていた。制作課長も隣の企画課長も立教OB。経理には前OB会長の山元さん。なぜか居心地のよい環境ではあった。すぐ近くの日本デザインセンターでは2年先輩の柏木さんがギンギンに活躍していた。当時の読広とNDCでは広告の制作スタンスがまるで違うので、これはかなわんと思う。広研同期には電通へ行った塩原徹、テレ朝へ行った故丹羽英介、I&Sに行った船橋英介がいた。塩原、丹羽とは、退社後、銀座で待ち合わせて、今思うとびっくりするほど飲みかつよく遊んだ。そういえば、初めてもらったボーナスの現金部分はひと晩で飲んでしまったな。一緒に行動を共にしたのが、広研ではなかったが、同じく立教から同期入社したHだった。現在ベガスにいる西島が、当時珍しいレコードが複数枚かかるオートプレーヤーを持っていた。それを借りて、読広近くの喫茶店でパーティを頻繁に開いた。読広のシャッタークラブという写真同好会では、新社屋の写真スタジオで、何と不謹慎にも「ヌード撮影会」をしようということになり、モデルスカウトのために同期のTと新宿2丁目、浅草をさまよった。これは実際に開催された。1丁目の小さな飲み屋「ともえ」「としこ」に入り浸った。3丁目のバー「憩」との付き合いは35年にも及ぶ。組合の執行部になり活動もした。短期間に学生時代にはなかった多彩な経験をした。
銀座で飲食店を開いている人たちは協同組合を作っている。年に1回旅行がある。私は3度ばかり店の従業員ということで連れていってもらった。1丁目から8丁目のピンからキリまでの店が勢揃いするのだから、夜の宴会は壮観です。熱海のとき、向かいの席に、おかまバーの老舗「青江」の一行が座った。ママ(法政大学馬術部出身)は、津川雅彦の奥さんみたいで、結構色っぽい。化粧はど派手でしたが。そこの「きんたろちゃん」がステージでヌードダンスを披露した。大きな羽扇でうまく隠しながら抱腹絶倒の芸だった。抽選会の賞品は家電品、家具と豪華版。そこで、私はサイドボードが当たってしまった。檀上でゲストの歌舞伎役者と記念撮影。後日、自宅へそれが送られてきたとき親に説明するのに汗をかいた。
社内のデザイナー、カメラマンと組んで朝日広告賞へ応募。まぐれで佳作入選。オリコミ車内ポスター展にもまぐれで入賞。制作の面白さとその後の酒の楽しさ。2つの花が一気に開花した。当時、広告制作界の寵児、西尾忠久氏の著書はアメリカの広告業界、特に制作畑の紹介をしていた。「コピーとアートの結婚」という魅惑的な言葉に当時の若い制作者たちは酔った。私も例外ではない。朝日広告賞を共に戦ったデザイナーK氏(アサツーDKのクリエイティブだったが、現在は某デパートの制作に携わっている)とは、常につるんでいた。つるむ、ということは、夜は一緒に飲んで酔っぱらったら彼の小石川のアパートへころがり込むという意味だった。ある時、有楽町の飲み屋へ二人で飛び込んだ。なぜか、日本酒だけしか出さないその店のママは、四国出身。坂本龍馬のミニレプリカがカウンターに鎮座し、シャミのBGが流れていた。初めてだったが気に入れられ、その日は泥酔。たまたま居合わせたのがママの友人。今日はパトロンが来ないから、二人ともいらっしゃい、ということになってしまった。そこまでつるむか!その後、友香ママは日本酒の飲み過ぎで体をこわしてしまいリタイヤ。別のママが引き継いだ。「よさこい」という名前は残っている。新しくなった店は何でも飲ませる。「百万年の孤独」という焼酎の味は別格。これを出す店は少ないので今でも年に1度位顔を出している。
3年勤務した読広から8丁目の日盛通信社という日立系の広告代理店へ移籍。宣伝技術部という古色蒼然とした名前の部署に勤務する。身分は社員だが給料は年間契約という野球選手みたいな雇用形態となる。ここで3年間日立の白物(家電品)を担当。愛宕山の日立家電ビルへ日参する日々を送る。この会社は、今は明治通信社に吸収されてしまったが、コピーライターもデザイナーも生え抜きはごく少数。ほとんどが他の会社でキャリアを積んだ人たちばかりだった。大人が多かった。仕事さえしていれば、朝、遅れてきてもよかったし、夜ギャンブルをやっても問題はなかった。トランプの「どぼん」が大流行。明けても暮れても制作ルームは賭博場の感があった。ここにも立教出身、しかもゼミの2年後輩のコピーライターがいた。7丁目の「銭形」へよく顔を出す。それから東急エージェンシーへ移籍。広研先輩の越森さんがいた。銀座と違った赤坂の夜を満喫する。仕事は、日立がついて回った。その他、総理府といったお堅いところも。次に、東急百貨店チームに組み込まれ渋谷分室へ。銀座、赤坂とは違った渋谷の夜を満喫する。まだ、スペイン坂はひっそりとしていた。坂の上には連れ込みホテルがあったが、その後、余りにも人通りが多くなりすぎて、つぶれてしまったとか。宇田川町にある北海道出身のご夫婦が経営する「番屋」という小さな飲み屋へよく顔を出す。銀だらの味は逸品だった。が、百貨店の広告はただあわただしいだけ。半年我慢したが辞めた。3年半のAgc勤務。次の職場は探さなかった。つまりフリーになった。業界に入って10年目だった。日盛通信時代の友人が仕事を紹介してくれた。オーディオのサンスイだった。JBLの日本代理店で、組合が強くて本社は赤旗ばかりひらめいていたが、アンプ、スピーカーはいい製品を作っていた。永福町の本社と新宿のショールームへよく通った。ほぼ同じ頃、パイオニアの仕事が来た。目黒によく通った。そうこうしているうちにSONYが来た。大崎のソニー商事と五反田本社へよく通った。
連鎖的にオーディオ、ビデオと電子機器の仕事をすることになった。従来、不動産、食品、繊維、車といったものよりメカが好きだったので、楽しくやれた。
しかし、SONYのベータが松下のVHSに破れ、オーディオも下降線をたどり始めていた。機を見るに敏は、フリーが身につけなくれはいけない感覚である。ある時、銀座1丁目の飲み屋で読広の連中と飲んでいた。これから期待できる製品は何かという話題になり、コンピュータという結論に達した。当時のパソコンは8bitマシンで漢字は表示できなかった。皆目見当のつかない製品だった。40歳の秋である。
今はなきSORDのM5という安いコンピュータを購入した。TVにつなぐゲームマシンみたいパソコンだったが、スペックはよかった。後に出るMSXはこれをかなり真似たような感じがする。初めて触れる機械だったが、面白さにのめりこんだ。BASICでプログラミングの真似事をしたが、しょせん文化系の悲しさ、壁にぶちあたる。2年ほどそのマシンで遊んでいるうちに、NECから16bitの名機PC-9801が発売された。漢字が表示でき仕事に使えそうだった。とびついた。当時で30万以上した。高い買い物だったがプリントアウトしたコピーはほとんどノーチェックで採用というおまけがついた。その頃はまだ原稿用紙に手書きというのが一般的なスタイルだったが、印字したものが商品となって、相手は感激してしまうのだ。少々コピーのできが悪くても。
コンピュータと一緒に、中目黒は山手通りに面した汚いビルの一室に事務所みたいなものを構えた。パソコンと電話を結ぶことが法的にOKになった頃である。パソコンがクローズではなく外に開かれる。それまではスタンドアロンでしこしこという、根暗のイメージがついて回ったが、通信によりネットワークされると多くの人とコミュニケーションがとれるということではないかいな。通信ソフトをBASICで打ち込んで、電話とつなぐという原始的な代物だった。数多くの実験局が都内に開設された。電話代を気にせず心おきなくやるには045の横浜からではなく03環境が必要だった。これは面白かった。仕事はコンプティークというゲームソフト会社やNECが来ていた。夜は家に帰らずパソコン通信に熱中した。そこで、BBS in Harajyukuという局を発見した。8時間チャットを経験したのもその局のシスオペとだった。掲示板があって、そこへDrunkerというハンドルでヘビーに書き込みもした。オフラインミーティングの経験もした。ネット上で過激な発言をしている奴が内気そうな高校生だったり、発言通りの人だったり。結構楽しかった。原宿にあるシスオペの家へ大挙して訪問し徹夜をしたり、それははちゃめちゃ。ちょうどOSがBASICからMS−DOSに変わる時期で、その勉強なども行った。オフラインに顔を出す人で、どこかで会ったような…。教授というあだながついていたが、本当に大学の教授だった。突然思い出した。大学の3、4年次にバイトしていた「週刊女性」の編集長ではないですか!このバイトを紹介してくれたのが、前広研顧問教授の林教授だった。私は彼のゼミを履修していた。しかも、卒論指導教授ではありまする。教授の東大新聞研時代の仲間からの要請でゼミから数人試験を受けに行った。作文を書かされ2人パスした。パスしたもう一人は女性だった。彼女は卒業後その会社「主婦と生活社」に就職してしまった。私にもそのチャンスがあったのだが、広告業界への夢が捨てきれなかった。
広研の後輩が汚い事務所に来て、酒盛りが始まり、トイレでゲロ。掃除をしないで帰ってしまい大変な思いをした。その中の一人が「主婦と生活社」にいるはず。
中目黒の事務所には、今ではミステリー&アドベンチャー作家として大成した佐々木譲さんも飲みに来た。線路の反対側に住んでいた彼は当時コピーライターだった。でも、目標はあくまでも小説家。ライターは生活のためだといっていた。本田技研出身の彼はすでに「鉄騎兵翔んだ」という小説で賞をとり、それが映画化されていたのに私は知らなかった。その頃、彼はカシオの時計時報とかいうPR紙の編集をしていた。彼が送り出す第二次世界大戦をテーマにした小説はすべて面白い。特に、「ベルリン飛行指令」ではヒトラーにせりふを言わせているのだからますます痛快。故郷の北海道やニューヨークへ長期滞在していて連絡がつかなくなってしまったが、熱烈愛読者のひとりなんです。私は。
事務所のあった山手通りと旧山手通りにはさまれた一帯は緑が丘(だったかな)の高級住宅地。坂の上のほうのエジプト大使館(だったかな)の前が、美空ひばりさまの豪邸だった。彼女がお隠れ遊ばされたとき、私は葬儀の参列者の中にいた。局のカメラクルーが大勢来ていた。Vサインこそ出さなかったが、カメラに向かって首をのばした。ミーハーなんです。この界隈は結構芸能人が住んでいた。フランキー堺、上原謙とはよく顔を合わせた。二人とも故人になりましたが。上原謙さんとは日比谷線高架下の蕎麦屋でも会ってしまった。往年の大スターが一人わびしく蕎麦をすする図は、はっきりいって見たくはなかった。
コンプティークというゲーム会社(角川から出た雑誌はその後である)の広告を作っていた関係で、そちらの業界の人々とも付き合いが始まった。仕事の忙しさといったら広告制作の比ではない。泊まりはざら。しかも遊びは派手。業界がうけにうけていた頃なので、若い連中がかなり金を持っていた。仕事のきりのいいときは飲みに行く。六本木の防衛庁界隈のクラブね。おかまで有名な某クラブにも行くが、結構顔なんですよね。びっくりしました。利益が出過ぎて社員全員ハワイ旅行というのもあった。当然、私もついて行きました。4日間滞在しまして、連日、日本料理屋でどんちゃん騒ぎ。すごい業界があるもんだと思った。
当時はコンピュータに特化したコピーライターが少なく、NEC、東芝、日立、富士通、日本データゼネラル、コンパックなどほとんどのメーカーの仕事をやっておりました。内容は、パソコン、オフコン、ワークステーション、ワープロ。なんでも。短期間でしたがアップルまで。
中目黒の駅の下は飲み屋が密集しているのを知ってますか?銀座、赤坂、渋谷とは違った下町風。家に帰ることを忘れた私は、相変わらずコンピュータと酒の日々を送っていた。仕事だけはきっちりやっておりましたが。その中の一軒が「りんどう」。夜の9時に開店。客がいれば朝までやっている。今でもそうなのかな。マスターは苦労人。人の気をそらさない。流しのギターは来る。夜中の3時頃には勤めを終えた六本木、渋谷界隈勤務のオネーサンたちが顔を出して盛り上がる。ついつい私も長っチリになる。
てなことを、4年以上続けていたら疲れた。家に戻る。自宅を事務所にする。コンピュータの進歩は早い。NECのオフコンの仕事をやっていたら、環境はWindowNTになり状況は変わった。オフコンというジャンルは消滅。クライアント、サーバの時代になる。吸収されたメーカーも出る。独自OSや保守点検で莫大な利益を得ていた各社は、ドル箱が消滅してしまい戦略変更。こうした事情がフリーには即影響する。
私の仕事用マシンはとっくに98からMacに変わっていた。MacはOSのセンスが違いますからね。でも、マーケティング戦略によりMicrosoftが大勝利。昔のベータ対VHSを思い出します。いくら優れていてもそれは絶対ではない。商売のうまいほうが勝ち。
仕事のベースキャンプは中目黒から横浜に舞い戻っても、コンピュータに対する思い入れは変わらず。その後、バブルがはじけて、進退を余儀なくされるが18の時からあこがれていた仕事だけに、そうそう簡単には引っ込めない。ある時、ある席で柏木先輩に、いくつまでコピーを書くのかを聞いたら、「ずっ〜〜と」ということだった。なら、私もそうします。フリーはいつでも看板を下ろすことができるしね。現在もNECはじめコンピュータのコピーの仕事を継続中。平成6年。東武動物公園という片田舎に引っ込み、野菜づくりを始めた。パソコン教室も開いた。インターネットのおかげで、広告の中心から離れていても、仕事は進行できる。
Mac OSを9.04にして道具はますます快調。脇腹へ脂肪がついてきたが、仕事のアブラものっている。OSXは発売されても当分見合わせる予定。
仕事の傾向としてはWebのコンテンツ作成が入ってくるようになった。クライアントにとっては紙媒体に比べ印刷コストがかからず、状況にあった情報伝達手段であるが、イージーに使ったのでは効果は期待できない。戦略ツールとして用いるにはプロにまかせたほうが安心だろう。今回、初めて組むデザインスタッフとは1度だけ会議で顔を合わせただけで、あとはメールで仕事が終わるという経験もした。今までにはないできごとだった。
なんでも屋のコピーライターからコンピュータに絞って16年経過。キャリアは35年。もしよろしかったら、私を使って。ね。

メールでのお問い合わせは>>>>こちら

※立教大学広告研究会OB会ホームページとリンクしている関係で、そちらに関する記述が多くなっております。

■My working circumstance

■modern criative style

スタッフ打ち合わせの後、デザイナーがイメージスケッチ作業に入る。以前ならサムネイルの段階で検討しカンプ制作を行う。今はIllustratorで作成した後、AcrobatでPDF化したほぼ仕上がりに近い画像データがEメールの添付ファイルで送られてきてしまう。コピーライターはこれをディスプレイに表示して、1行××字、×行と計算しながらエディタでコピーを書く(入力する)。それをキックバック。デザイナーは所定の位置にテキストファイルを流し込みフォントを決定。トンボが印刷できるA3ノビのインクジェットプリンタで出力したあと、必要部数をカラーコピーしてクライアントへプレゼンテーションに臨む。写植、版下作業という段階をデザイナーが担当。また、写植入力オペレータの役割をコピーライターが行う。こんな状態なので、オリエンからプレまでの制作期間がかなり短くなった。クライアントも入稿直前のような広告でプレゼンテーションされることが当たり前という風潮になってきている。

トンボ入りのPDFファイル
線状になっているのがコピースペース。

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