遺跡とごたいめ〜ん
山崎地区の中でも私が住む地域は「山崎山」と呼ばれている。横浜には「谷戸(やと)」という地形があり低地と台地の落差は大きい。関東平野の平坦地では、他の地域より高く木が密生していれば往々にして「山」と呼ばれる。昭和20年、栗橋の堤防がが決壊し利根川の水が流れ込んだときも、このあたりは無事だったという。
石器時代には大宮台地の北のはずれで、東京湾が関東地方の深いところまで入り込んでいた頃すでに我々の祖先が生活をしていた。その痕跡が至る所で発見されるらしいのだ。郷土資料館には「山崎山鍛冶工房」という縄文人が道具を作った遺跡が展示されている。
そんな歴史のある場所だから、何か工事が始まる前には必ず遺跡調査が行われる。この写真は、2000年12月撮影。新しい村の二期工事、「市民農園」が作られる前に行われた。寒風吹きすさぶ中で、数名の人が黙々と地面に向かっていた。結果は公表されなかったから目ぼしい成果はなかったのだろう。その後、土は戻され現在は野菜の育成を楽しむ場所に変わった。めでたしめでたし(かな?)。

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