私の銀座、裏・表
何年も前から出かけるたびにカメラにおさめてきた。
カメラが銀塩からデジタルに変わっても対象は変わらない。
興味があるのは表通りより裏だ。
昔ながらの建物を主に収めている。
表のビル化はすさまじい。
地価が高いので、平屋店舗では税金が払えなくなるんだろうな。
結果、ビルとなり風情のある建物が姿を消すことになる。
同じようなことが、裏通りにも起こっている。
今回は銀座1〜3丁目の、昔、関わりのあった場所をまとめてみた。
平成17年7月21日撮影。新橋に向かって右サイドから。右は1960年代に、ほぼ同アングルから撮影。
都電が走り、乗客は「安全地帯」という都電のホームで待つ。当時は車の数も少なく、「安全地帯」も「安全」だったが、車の普及とともに「危険地帯」となる。しかし、車が飛び込んで死傷事故を起こしたというニュースは記憶にない。
「ビー」とあるのが、キャバレー「クインビー」。戦後間もなくは米軍に接収され娯楽施設になっていた。この建物の地下は、半村良の小説「お米平吉・時穴の道行き」で、タイムスリップ装置があったところだ。「クインビー」は今、メルサになっている。
通りをおいて、手前が私がいた読広であるが、まだ、その位置にはない。1本裏通り、旧中央支社が本社だった。※右の写真は、当然私の撮影ではありません。
左は銀座1丁目の角。ガラスのビルは高級宝石店「ハリー・ウインストン」。常に入口にガードマンがいて、冷やかしの客はまず入れない。
大家は読売広告社。この新館ができるまでは、本社入口だった。だが、だだっ広い空間を遊ばせていたのではもったいない。貸せば家賃が入る。
で、読広は脇が本社入口。ビルのせり出した部分から上を使っている。当然、手狭なので、裏にかなりのビルを借りている。
右は、昭和40年頃、同じアングルから。都電が通るのどかな風景。こげ茶色の本館は昭和39年に落成。昭和40年入社の私は、奥の旧本館の4階(たぶん)の制作部に勤務。クライアントへ行くにもお茶を飲みに行くにも、このビルが本拠地。実になつかしい。
今、読広は生き残りと、モンスター電通に対抗すべく、博報堂、大広と持ち株会社「博報堂DY」という会社を作った。が、合併ではないので、それぞれの名前で営業している。当然競合する。これで、はたして3社連合はうまくいくのか、と思わせるのだが。※右の写真は、当然私の撮影ではありません。
会社勤務時代。退社時刻が近付くと、気もそぞろだが、先輩を差し置くわけにはゆかない。初年兵の頃は残業などほとんどないから、夜の遊びが待ち遠しい。
1丁目を有楽町方面に。並木通りを右に曲がると赤鳥居。「幸稲荷」だ。この横丁がホームグランドだった。今、映画館・並木座もない。
写真はH15・7・20撮影。鳥居の朱も鮮やかだ。角の銀杏も大きく育った。昔は飲み屋がひしめき合っていた路地も、「卯波」とおでんやのみ。
「卯波」は女流俳人・鈴木真砂女が女将だったが物故した。縁者が引き継いでいる。その前に「ともえ」があったが、バブル全盛の頃、地上げが入りビルに。ブティックだったが、いつの間にか美容室になっていた。
右の写真は、稲荷と逆の側から見たもの。

上の右の写真と同じ側から見た。1978年(S53)当時の路地。小さな飲み屋が肩寄せ合っているのが」わかる。
「卯波」の看板はハレーションを起こしている。広島の銘酒「酔心」が売りの「ともえ」。この店には頻繁に顔を出していた。「ちぐさ」「倫」はまだ灯っていない。
ここにも時たま行ったが、私は「ともえ」の客だから、ママ同士の仁義で、長居はできなかった。ところが、「倫」は、ここでは新参者で、ママは若かった。そして、この路地では一番「色っぺ〜」人だった。「ともえ」とはトイレが共同で、使う時はお互いに相手側の内鍵をした。
渋谷宇田川町で顔を出していた店のマスターとママは懇意で、彼が「倫」のママに彼女を据えた。どんな経緯があったのかは、あえて聞かなかった。
筋が通っているので、私が「倫」に顔を出しても、「ともえ」のママは露骨にいやな顔をできなかった。
「卯波」は久保田万太郎始め俳壇の超お歴々が通う店として知られていた。私も興味をもって何度か顔を出したが、昔気質
の女将らしく、「ともえ」の客とわかっているから、軽い扱いであった。そんなわけで、「卯波」からは足が遠のいた。
「ともえ」を除いて地上げ後のママたちの行方はわからなかった。
あるとき、大学時代の友人が通っている銀座8丁目の社交ビルの店に連れて行かれた。紹介されたママも、私も「どこかで見たな…」と。なんと、「倫」のママだった。あれから10数年。彼女はどっこい銀座で生きていた。
撮影日は12月21日。かなり押し迫っている。ツケの支払いに来たときに撮影した
ものかね。当時は、すでにフリーになっていたから、たぶん5時頃ここを訪れたかも知れない。戦後の匂いのするモルタル造りの建物がよくわかる。
「ともえ」のママは地上げをしおに、この商売から引退。東砂町のマンションに住む。以前は、読広の常連客3〜4人で新年会などを行ったが、すっかり疎遠になった。彼女も、いい歳になったはずだ。

銀座3丁目「憩」
地下の店は、「TorysBar」の面影を残す貴重なBarだった。ところが、平成15年にオーナーが引退。別の店になってしまった。
(左:在りし日の「憩」 右:新店舗)
当然、若者向けの場所だと思うから、まだ顔を出したことはない。でも、聞いたところによると洋酒の好きな人には、なかなか、らしい。今度、機会があったら立ち寄ってみようか、と思っている。
「憩」の店内。大きなカウンターの後ろは、ボトルがびっしり。
この店通いは昭和40年頃から始まった。生意気にもボトルキープをした。オーナーバーテンの「おーさん」は、新兵だとわかると、「サントリーレッド」をもってきた。「レッド」時代が長く続き、歳とともに「白」「角」とグレードアップした。
右の写真は私のボトル。ジョンとマミの顔を書いていた。
椅子に座ると、ボトルと氷、お通しの3点セットが目の前に並ぶ。始めの1杯から水割りで始まる。だいたいオイルサーデンを頼んでいた。職業柄とはいえ、1度きた客の顔と名前は憶えている。キープしてある場所も同じ。歳が行っても記憶力は衰えていなかった。
マスターと彼の奥さん。スタッフの「ひろちゃん」。昔はもっと大勢のスタッフがいたが、最後はこの3人でがんばっていた。
冗談が好きだが、上品な紳士という雰囲気があった。大昔からの客が多く、当初は、働き盛りの溜り場という感じ。客同士が顔なじみになり会話がはずむときもあった。そのうち、客の誰さんが亡くなったという話題が出る。たまに行っても、昔ながらの客が多かった。
古い客の層が厚かったので、私はいつも新兵の格だった。そして、閉店前は老サラリーマンの「養老院」の状況を呈していた。
にわかに増えた若者向け「飲み屋」とは、あくまで一線を画した大人の店だった。
戦後の「TorysBar」文化の花がひっそり咲いていたような店だった。
私が知り合った頃、すでに40代だと思うので、もうかなり高齢。
「おーさん」は、今、中野でゆったと過ごしているのだろうか。
こういう店は、どんどん銀座から姿を消してゆくことになるだろう。
「憩」の前にあるワンショットバーは健在だ。以前は、もっと道路側に立ち飲み用のテーブルがあったはずだが。
夕方5時頃になると、気の早い連中が飲み始めている。酒屋の店先で、枡酒をキューッと1杯やるのとなんら変わらない。このときは、初老の親父が若い子と話していたが、この子には連れがいた。こういう場所でhuntは無理ね。世間話で時間つぶしというのが正しい利用法。
銀座1丁目「三州家」。大衆酒場である。私が顔を出すのは、通りに面したほうではなく、路地のどんずまり。店内は結構広い。清潔感があって値段は安い。サラリーマンが気軽に立ち寄れる。さすがに1人で行っても間が持たないので、とんと御無沙汰だが。
銀座1丁目の表通り。大きな更地ができていた。鉄板で囲われていたが、やがてここにも大きなビルができる。右の写真は、柳通からJR有楽町に向かう途中。「春日」も健在だった。ここは、読広の営業の連中がよく行っていた。
1丁目で極め付きのレトロ。左は歯科医院。右は「金兵衛」ここに入ったことない。まだ、このような建物は東銀座と築地の間にはわずかだが残っている。
なんか、ほっとさせられるが、周囲のビルに囲まれて、かえってアンバランスなたたずまい。ここも間もなく消えていくのだろう。
裏通りも、スイーツやブティックなど女性受けするような店が多くなっている。以前は、サラリーマンが小さな飲み屋をはしごする姿が多かったのだが。
「真砂女」の著書「銀座に生きる」では、店の近くの桜のことが書かれている。
銀座で唯一の桜並木は「ソメイヨシノ」で、今、濃い緑の葉を茂らせ木陰をつくっている。
小型カメラ用のイタリア製三脚を買ったカメラ屋も、フィクサチーフを買った画材屋「ナビス」も姿を消していた。

映画の中の、昭和初期の銀座

篠田監督の「スパイ・ゾルゲ」では、昭和初期の銀座のシーンが結構ある。昨年夏、放映された。CGで、作りすぎの感がある物もあったが、銀座は楽しめましたね。
当時23〜4の私の父は、日本橋馬喰町に住んでいた。日本橋女学館を卒業したおしゃれな叔母は「モガ」。たぶん、こういう銀座を知っていたのだろう。
服部時計店が見える。松屋あたりの前ではなかろうか。手前の女性の服装から初夏頃か。歩道は石畳でゆったりしている。低い商店の家並みが続く。
これは何丁目かわからない。背広も和服もカンカン帽。白い夏服の大柄な男がゾルゲだったかな?
ビヤホール「ラインゴールド」銀座7〜8丁目の裏通りか。映画ではゾルゲはここの女給と知り合う。「葉月りおな」扮する花子さんだったか。彼女が、絞首刑で死んだゾルゲの墓を探し出し、墓を作りねんごろに弔う。
銀座3丁目。根拠は、ショーウインドウの文字。「IYAGAKKI」とある。これは中村絵里子さんの実家が経営する「十字屋」の昭和初期の姿。以前から同じ場所であれば、3丁目なのだ。

明治30年代の銀座

新橋川から銀座8丁目を望む。左角が「博品館」。今、「博品館劇場」がある。電車は通っているが、舗装はなし。雨の日はぬかるんだんだろうな。
電信柱か電柱か?各戸に電線が引き込まれていないところを見ると、通信用の電信柱かな。


銀座1丁目界隈

銀座3丁目界隈
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