徳川軍の最後の抵抗は「函館(箱館)戦争」で終結した。新選組の土方歳三もこの戦いで戦死している。決戦の最期の地が「五稜郭」だった。
城にしては城郭がない。しかも、日本古来の築城法とは大いに違う幾何学形の構造物。いつ頃、何のために築かれたのか永年の疑問だった。
インターネットで調べたところ、以下のようなことが判明。
江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された城郭。当時の正式名称は亀田役所土塁(柳野城とも)。日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するために築造された。設計を担当したのは、洋式軍学者の武田斐三郎。大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける築城の様式を採用し、堡を星型に配置している。
1857年(安政4年)に工事開始。
1864年(元治元年)箱館奉行が業務開始。
1866年(慶応2年)工事完了。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。費用不足もあって、当初の計画は縮小され、半月堡も大手口に一か所しかつくられなかった。
1868年(明治元年)10月26日、大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が五稜郭を占拠、1869年1月蝦夷共和国樹立。1869年(明治2年)5月18日、新政府軍に敗北し明け渡される。
明治4年以降から、五稜郭内部の建物はほとんど取り壊され、材木などは開拓使官舎に使われた。その後は要塞兼練兵場として陸軍省の管轄下に置かれていたが、1914年(大正3年)に公園として一般に公開されると、1917年(大正6年)には、片上楽天が兵糧庫を利用して「懐旧館」を設立。箱館戦争に関する資料を展示していた。
1922年(大正11年)に国指定史跡となり、第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)には特別史跡に指定されている。1955年(昭和30年)に函館市立博物館五稜郭分館が開館、1964年(昭和39年)、入口付近に五稜郭タワーが建設された。現在は、サクラの名所としても知られる。
設計に携わった武田斐三郎(たけだあやさぶろう)
文政10年(1827年)、伊予大洲(いよおおず、現在の愛媛県)に生まれる。医学をはじめ、蘭学(らんがく)、航海、築城、造兵と多くの学問を学ぶ。
22歳の時大坂にでて緒方洪庵の適塾に入門し蘭学や医学を学ぶ。2年で蘭学の講読を習得し、江戸に出て佐久間象山の門に入り学ぶ。ここでは英仏語、西洋兵学を修め、特に海防学、砲台の築造、造船については綿密な指導を受けた。佐久間象山の推挙により幕府に出仕。安政元年(1854年)、蝦夷地出張(えぞちしゅっちょう)を命じられ函館へ渡る。五稜郭(ごりょうかく)および弁天岬砲台(べんてんみさきほうだい)の築造に着手し、一方では身分に関係なく学べる官設の学校、諸術調所(しょじゅつちょうじょ)を設置する。
この頃の城といえば石垣を築きその上に天守閣を据える古来からの築城法しかなかった。しかし火器の発達した西洋諸国の攻撃から奉行所を守るには我が国の築城法はあまりにも無力であった。そこで武田はオランダ式の築城法を取り入れ、我が国初の西洋式要塞を設計した。
また、我が国で初めて製造された洋式帆船「箱館丸(はこだてまる)」に乗って門下生たちと航海に出たり、航海測量をしながらロシアへ渡り交易をするなど、日本の航海史上でも特筆すべき活躍を果たします。函館の建築・人材育成に力を尽くした科学者で明治13年死去。
武田斐三郎が参考にした西洋の築城法
専門家の調査によれば、「五稜郭」はオうンダ式の築城法で、折柄幕府軍に加担していたフランス海軍から献上されたフランスの築城書を武田斐三郎がよく研究し、それを柳野に実現させたのだという。
ヨーロッパは地続きの小国が長年、戦を繰返した土地だけに古来、各地に城が多い。中世期ヨーロッパの城は、丸くて背の高い煉瓦作りの塔が多かった。しかし時移って、火砲が使われ初めると塔は次第に低くなり、逆に火砲を塔上に据えて使うようになり、十六世紀ごろになると、五稜郭のような角のある城郭がイタリーで考え出され、それが次第に欧州各地に拡がった。十六世紀以来、オうンダがスペインに独立戦争を起す時になって市街地防衛のために現地の地形を利用して、五稜の城の外側に水濠を持つ城が考え
出された。五稜郭の原型になったのはこのオランダ式築城法なのである。オランダのみならず、フランス、デンマーク等にこの型の城が多い。
「五稜郭」に隠れて、その存在はあまり知られていないが、「四稜郭」もある。
四稜郭(しりょうかく)は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が現在の北海道函館市に築城した堡塁。 空堀に囲まれ、規模は約100メートル、4つの突起を持つためこの名がある。 五稜郭を援護する支城として約3キロ離れた場所に作られた。
主戦場となる函館近郊を一望でき、また同時に五稜郭および鎮守府である東照宮を防御するため築造されたものである。明治2年年4月下旬から脱走軍兵士200名と付近の住民約100名を動員して、昼夜兼行の工事により短期間で完成したが、5月11日早朝からの新政府軍総攻撃により、わずか数時間で陥落したといわれている。建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉と言われる。現在は国指定史跡となっている。
というような知識を得て、五稜郭の原型となったヨーロッパの城郭をGoogleEarthで調べてみた。訪れた国は、オランダ、ベルギー、フランス、デンマーク。大航海時代のオランダ植民地。すると、幾つか見つけることができた。
GoogleEarthで見た凾館:五稜郭

外国の五稜郭は水辺に配置されているが、日本の場合はだいぶ奥まった所に築かれている。
低解像度データのため、拡大すると、茫漠となる。
■デンマーク:コペンハーゲン カステレット旧城
■南アフリカ連邦:ケープタウン The Castle of Good Hope

南アフリカでもっとも古い、西洋文明誕生のシンボルとなった建物で、1679年に建築された城塞。
■ベルギー:アントワープ(アントウェルペン) 上が四稜郭、下が五稜郭。
1814年のアントワープ古地図にも表記されている。
 
アントワープの五稜郭にズームアップ。低解像度データなので「ぼけぼけ」。
■ノルウェー:ベルゲン1814年の古地図
ベルゲンの町だが、低解像度データのため、ここから上記の城郭を探すのは不可能だった。
ノルウェーはフィヨルドが多く、ベルゲンを探すのも一苦労。
外国で3つの「五稜郭」を確認することができた。まだ現存するものがあるのだろう。今後も、ヨーロッパの古戦場を探し歩いてみるつもり。
4つめ発見。2005.11.29
■ローマ・バチカン市国<サン・アンジェロ要塞>

■ペンタゴン<米国ワシントンDC>
厳密に言えば、凾館五稜郭の元になった建造物ではないけれど。
アメリカ国防総省を、その形から五角形(ペンタゴン)と呼んでおります。

5階建てで、各床に環状の廊下がある。この構造により、世界最大のオフィスビルでありながら、一番遠いところにも10分以内でたどり着くことができるとされている。所在地はワシントンD.C.郊外のバージニア州のアーリントン。約23,000名の軍事・民間の従業員、約3,000名のペンタゴンの国防以外の援助要員を収容する。
1943年1月15日に完成。2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた民間航空機が衝突し、一部が崩壊・炎上した。その後、元の石材と同じものを使用して迅速な復旧がなされた。

ペンタゴン建設以前は、戦争省(国防総省の前身)の建物は、ナショナル・モールの側にあった。それは、第一次世界大戦中に建てられたものであった。1941年9月11日より、レズリー・グローヴス(後にマンハッタン計画も指揮)の指揮により建設が開始された。必要とされる砂利などは62万トン以上に及んだが、ポトマック川からの浚渫などにより確保された。なお、鉄筋は戦時中のこともあって多くは使用されていない。完成は1943年1月15日のことである。
(以上:ウィキペディアより)
■ニューヨーク<Fort Jay>
これは意外な発見でした。上のペンタゴンの後、ニューヨークに寄り道しました。マンハッタン島の入口に「自由の女神」の「リバティ島」がありますが、その右は「草鞋」みたいな「ガバナー島」。高度3000mで通過しようと思ったら、ちょっと引っかかる構造物を発見。500m上空から眺めたものは「五角形」の要塞ではありませんか。
「Jay要塞」といい、1776年構築というから独立戦争のときのものでした。ニューヨーク湾防御のために建築。ヨーロッパの築城技術ですね。当初は土の砦だったのを1806年に石にしたそうです。砦内の大砲は南北戦争にも使われたそうです。

右から入り込んでいるのがイースト川、ハドソン川は真上から。マンハッタン島の「ブルックリン橋」と「マンハッタン橋」が見えます。湾には3つの島。一番小さいのが「リバティ島」。右側が「ガバナー島」ここに「米国版・五稜郭」があります。

右上が、それ。

178m上空から見た「Fort Jay」
2006.01.31
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