History
■2004年1月21日
●勝海舟、没
 続き
幕臣勝海舟は、徳川幕府瓦解後、明治新政府に出仕。
参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任した。
爵位(伯爵)も授かる。明治5年(1872)、参議を辞し著述に専念する。
実子は2男2女であったが、妻「たみ」は、海舟が外で作った子供たちも育てた。
海舟は、安政2年(1855)海軍伝習所伝習生として長崎にあった。
このとき、ねんごろになった「おくま」(お熊じゃないよ、お球磨だよ)との間に
梅太郎をなした。
彼女は梅太郎が3歳のとき、25歳の若さで他界した。
美しい人であったという。
海舟は遺児を自分の3男として育てた。
梅太郎は後に死んだ母方の姓「梶」を継ぐことになる。
この梅太郎が、明治8年に会計学のお雇い外国人として来日した
ウイリアム・ホイットニーの娘クララと、明治19年に結婚。
1男5女をもうけるが、梅太郎に甲斐性なく
明治33年(1900)に子供を連れてアメリカに帰国してしまう。
その後、梅太郎は榎本武揚の縁戚にあたる「田崎この」と再婚。2男1女をもうける。
侍従に、東京市長の候補になど声がかかったものの
生来のお人好しと物ぐさのため、固辞し続けた。
晩年は落魄の生活。大正12年(1925)3月、東京で没した。

海舟は生活力のない梅太郎に代わり、クララと子供たちに物心両面から援助した。
しかし、海舟は明治32年1月21日に他界する。
大きな後ろ盾を失ったクララは、翌年5月失意のまま米国に帰国する。
昭和11年(1936)12月クララ死去。
その後、彼女が残した膨大な日記が見つかった。
14歳の米国少女が見た日本
明治初期の政府高官との交流などが描かれた貴重な資料である。
それよりも、なによりも
勝海舟の血を引く青い目の子孫が米国に在住するという、驚くべき事実である。

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