Case(事件)
■2011年5月5日(木曜日)
米国特殊部隊に殺害された
オサマ・ビンラーディンのボディガード







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■2004年11月2日
香田青年の処刑後

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■2004年10月6日
ユージン・アームストロング氏の処刑

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■2004年6月15日
●パリ人肉殺人事件
1981年(昭和56年)6月11日、パリ第3大学で学ぶ留学生の佐川一政(いっせい/当時32歳)は、
自分のアパートに、同じ大学で学ぶオランダ人留学生のルネ・ハルテヴェルト(25歳)を呼び出し、
関係を迫ったところ、彼女から強く拒否されたので、カービン銃で背後から射殺。
尻、太ももなどをナマで食べたあと、死姦。死体を運搬するために解体。
その間にも人肉をビフテキのように焼いて食べ、冷蔵庫に死体の一部を保存していた。
13日、スーツケース2個買い、ひとつには頭部と手足、もう一方には、胴体を詰めて
、タクシーでパリの西方にあるブローニュの森の湖畔に棄てた。
同日夕方、スーツケースが発見される。15日、パリ警視庁により逮捕され、アッサリと犯行を自供。
 

よくも、こんなにていねいに切り分けたもんだ。
こんな事件を起こしながら、たいした罪にもならず、社会に棲息しているもんだ。
1983年(昭和58年)4月、フランスの予審裁判所は、事件当時、佐川は医師の鑑定にもとづき、
心神喪失状態であったとして不起訴を決定した。
ルネの遺族は控訴したが、12月、不起訴が確定した。
佐川は4月から、パリ郊外のアンリ・コラン精神病院に入院していたが、
1984年(昭和59年)5月、帰国すると同時に、東京都世田谷区の精神病院である都立松沢病院に入院した。
1985年(昭和60年)8月、松沢病院から退院。
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■2004年5月18日
阿部定事件
JR尾久駅は不思議な駅である。上野の隣にあるにもかかわらず山手線では行けない。
高崎線、宇都宮線の中距離電車でしか乗降できない。都内の超ローカル駅の風情である。
昭和11年5月18日、午前11時ごろ(午後2時55分ごろ、とも)尾久三業地の待合「満佐喜(まさき)」の
2階4畳半の「桔梗(ききょう)」の間で男が殺害されているのを女中が発見した。
8時頃、連れの女が「水菓子を買いに行く」と言って外出し、そのまま帰って来ない。
この男女は、最近頻繁に「満佐喜」に宿泊していた。
被害者の男は東京市中野区の「吉田屋」という鰻料理店の主人の石田吉蔵(きちぞう/42歳)、
逃走した女は「田中かよ」と偽って同家の女中になっていた阿部定(当時32歳)であることが判明した。
  
事件のあった待合満佐喜(毎日新聞)       事件のあった桔梗の間

これが「阿部定」事件のアウトラインである。
妻子持ちの経営者と従業員の不倫。
今で言うなら色に狂った中年カップルがラブホに流連(りゅうれん)したことになる。
現代でも連れ込みホテルで男(或いは女)が「寝かしておいてくれ」などといって先に出て、
残されたほうが殺されていた、なんて事件はごろごろしている。
ところが、この事件は少し違っていた。男のモノが全て切り取られていたのだ。
(聞いただけでも身震いするね)あ〜〜こわ。
※流連:遊興にふけって、家に帰るのを忘れること。遊びに夢中になって我を忘れること。
  居続け:遊里などで、幾日もの間泊まりつづけて遊ぶこと。

男は枕を窓側にして、赤い絹の腰ひもで絞殺されており、その顔にはタオルがかけてあった。
蒲団の敷布には<定吉二人きり>と7〜8センチ角の楷書でしたため、
左大腿部には血液で<定・吉二人>と書かれ、左腕に<定>と刃物で刻まれていた。
さらに、男の局所が陰のうもろとも切り取られていた。
  
二階の見取り図                     殺害された吉蔵(すっぱり切り取られている)

昭和11年と言えば、2.26事件が起こり軍国化へと急速に傾斜していった時期。
翌12年に盧溝橋事件で日中戦争に突入する。世間はいいようのない閉塞感に包まれていた。
そんなときに起こった猟奇事件が、少しばかり息苦しさに風穴をあけたようだ。
世間は沸きに沸いた。
2日後の、5月20日午後5時半ころ、定は品川の駅前の旅館「品川館」で逮捕された。
各新聞は一斉に号外を出して「阿部定逮捕」を報じた。このとき、国会では2つの委員会が開かれていたが、
委員長の緊急動機で会を中断、全員、号外を読み耽ったという。

逮捕されたとき、所持品の中にはハトロン紙で包まれた吉蔵の局所が帯の間にはさんであった。
他に、吉蔵の猿股、褌、メリヤスのシャツ、刃渡り15センチの肉切り包丁があった。
定は切り取った吉蔵の局所を眺めて少し舐めたり、ちょっと当ててみたりしたと、のちに供述している。
なぜか微笑む阿部定

この事件は2人ばかりが目立っているが、もう一人の男がいる。
待合に居続けて金がなくなったとき、定に資金援助していた「大宮五郎」である。
彼は、名古屋で市会議員で、中京商業高校の校長という要職にあった。
そういう男がなぜ定と知り合ったのか?
定は吉蔵の店、吉田屋に勤める前に、大阪、神戸、名古屋などで芸者、娼婦などをやっていた。
名古屋時代に大宮五郎の妾になっていたのだ。
定は尾久の待合から列車で名古屋まで行き金を受け取り、また尾久へ跳んで帰るというような芸当までやっている。
新幹線もない時代に、ものすごい行動力、と妙に感心してしまった。
定の事件により、彼は全てを失うことになる。

定がまだ神田の実家にいた娘の頃、幼友達の家に遊びにいった。
家にはその兄の友人の慶応大学生がいた。定はその男に犯され処女を失う。
自暴自棄になった定は浅草に出入りするようになり、不良とつきあい男関係も乱脈になったようだ。
家庭環境も複雑だった。相変わらず男出入りの激しい定に父親は怒り芸者屋に出されてしまう。
そこから、定の全国行脚が始まるのだ。

殺された吉蔵も、女房持ちだが次々に愛人をつくるという好色な男。
男好きの定と女好きの吉蔵が出会えば、どうなるかは火をみるより明らかだ。
尾久の待合に辿り着くまで、何軒もの待合を泊まり歩いている。
昭和11年2月1日、吉三の店の女中となり、すぐ関係ができる。
4月19日、関係しているところを女中に見られ妻に露見。
4月23日、定は吉蔵と家出して渋谷の待合「みつわ」へ。
4月27日、多摩川の料亭「田川」へ。
4月30日、尾久の待合「満佐喜」へ行き、5月5日の夕方まで寝床を敷きっぱなしにして吉蔵と情痴の限りをつくす。
5月11、12日、「満佐喜」へ。
5月15、17、「満佐喜」へ。
18日早朝殺害
と、こんな具合。もう破滅への坂道をころげおちております。
この殺害だが、絞殺によっている。
憎いからではない。性行為中、お互いに首を絞めると具合がいいらしい。
吉蔵は、ここまで堕ちたなら首を絞められたまま死んでもいいと思ったのではないか?

12月21日、東京地裁は、定に対して懲役6年という軽い刑(未決勾留120日通算)を言い渡した。
定、検事ともに控訴せず、定は女子刑務所の栃木刑務所(栃木市)に収監された。
1941年(昭和16年)5月17日、前年(1940年)の皇紀2600年祝典による恩赦で減刑され、
奇しくも犯行から丸5年目のこの日、刑務所を仮出所した。
「吉井昌子」と名前を変えて、誰にも過去を知られず暮らすことになった。
その名前で結婚をし、戦時中は埼玉県に疎開していた。
1971年(昭和46年)、千葉県市原市のホテルで、「こう」という名前で働いていた。
置手紙を残したまま、姿を消して、以後、消息を断っている。現在は生死不明だという。

私の教室の生徒さんの1人が、私の菩提寺の竜泉寺のある台東区竜泉出身だった。
町の話をしているとき、寺の近くの生花店が昔飲み屋で、「阿部定」が一時期そこで働いていたという。
浅草で働いていたときマスコミに発見され大騒ぎになったことがあった。
浅草と竜泉は近いし、信憑性がある。しかし、尾久へもそんなに遠くはない。
事件を起こした近くで働けば、いやでも昔を思い出すだろうなと思っていた。
はっと、浮かんだ人物がいた。
竜泉寺の境内に墓守の小屋がある。そこにいつの頃か上品な老婦人が住みついていた。
小柄で面長・色白。昔は美形で花柳界にいたのではないかと思うほどの人だ。
どんな事情で、そこに住んでいるのだろうとちらっと思った。
半紙に心づけを包んで渡したこともあった。
その彼女もいつの間にか姿を見なくなった。亡くなったのかも知れない。
もしかして、あの人が阿部定ではなかったか?
そういう思いが最近ふくらんでいる。
住職が元気なうちに聞いてみたいが、いざ寺へ行くとなかなか切り出せないでいる。

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