田舎三昧の生活と意見2月版

<--田舎三昧の掲示板

2012年2月
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■Contents

01舌禍の連鎖反応
02銀座のサテン
03オットーという男
04Google日本語入力
05独裁者と同調者の最期
06男勝りのパイロット
07映画g@me
08凄みのあるカメラ
09ヒトラーの野望
10ダウンフォール
23ノマド 野窓?
28昭和のゲイ
29緊急地震速報
  都合のいいコメント



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Last Modified 2012/02/10
First Uploaded 2003/09/01


2月29日(水曜日)
●緊急地震速報
日付は29日に入り間もなく2時になろうかとする深夜。
イヤホンでNHKラジオ深夜便で落語を聞いていた。

すると突然、緊急地震速報!
「ただいま地震発生しました」

いつもなら布団の中で成り行きを見守るのだが、
最近珍しいので、飛び起きダウンを引っ掛ける。

外は雪だろう。
こんなとき大災害になったら目もあてられない。
しかし、東日本の人たちはもっと厳しい環境で耐えている。
そう思いつつ、このあとどんな揺れがくるのかと生きを殺していた。

が、な〜〜〜んも揺れない。

ややって、NHKは、
震源房総沖。銚子震度1…

あらら、そんな小さな揺れでも速報が出るの?

今後、たかをくくって寝たままでいると
直下型が来たりして…

東大地震研究所に首都直下地震で脅かされ。
NHKに緊急地震速報でどきどきさせられ。

しかし、彼等の警告を「狼少年」と軽視するわけにもゆかず。

とはいえ、何を信じたらいいのか。

まったくややこしい世の中になってきたもんだ。

NHKの通常放送が始まった時、落語は終わっていた。

●都合のいいコメント
大震災後の原発事故の政府、東電の対応について、
「原発事故に関する独立検証委員会」という第3者機関が報告書を公表した。

そこには管前首相の本来彼が行うべきでない
現場レベルの内容にまで介入し混乱を増大させたことに触れている。

仮に8割がタコな対応でも2割は評価されることもあった。
それは、先行き不透明な事故に対し東電は現場からの撤退を申し出たが
管氏はそれを拒否した。
それは評価できるとしている。

報告書は事故に関わった政治家、専門家へのインタビューに基づいているという。

報告書に登場する何人かの政治家がコメントを出した。
出色は管氏。
2割の高評価に対し「公平に評価し大変ありがたい」
だが、8割の批判には口を閉ざしたまま。
都合のいい人ではある。

彼の対応のまずさは「大局」が見えていなかったことだ。
枝葉末節とまでは言わないが、専門スタッフが取り組むべき事柄に介入し
最高権力者の特権を振りかざして混乱させた大罪が、
すっかり頭から抜けている。

「イラ管」らしく怒鳴り、わめき、スタッフを萎縮させた。

現場へ向かうヘリには管氏と斑目氏の姿が映っている。
管氏は斑目氏に「水素爆発は起こらないか」と尋ねた。
専門家としての立場から「起こらない」と答えた。

しかし、爆発した。

斑目氏は事故究明の長として、専門家としての見識など面目失墜。
管氏は斑目氏に不信感を抱き、自分の人脈で専門家を集めてしまった。

以後、斑目氏は的確な助言をすることをためらうようになってしまう。

事故への対応のまずさに国民は政府に対する不信感を増大させた。
当時の枝野官房長官の「大本営発表」は苦しいものだったことを
国民は知っている。



当時、正しい解決策を持っていた官僚が仮に存在していたとしても、
管以下、わけのわからない関係大臣と取り巻きの声に押され彼は発言をためらう。

これは、大陸侵攻を経て無謀な太平洋戦争に突入していったときの
陸軍参謀本部の思考形態に酷似している。
管氏が東條英機だ。
陸軍参謀本部、海軍軍令部は優秀な人材を抱えていたが、
集団で作戦を討議する段になると、
声のでかい、いけいけどんどんグループが主導権を握ることになる。

補給路が伸び切ることがわかっていても、
なんとかなるだろう、とか、やってみなきゃわからないとか
相手はそこまでやってこないだろうなど甘い判断が生まれてくる。

結果、兵隊は消耗するし国民も犠牲となる。
一握りのエリートのいいかげんな政策で。



管氏は市民活動家から首相にまで上り詰めた人だ。
いわゆるもとは草の根政治家。
地を這うように問題を探しまわる。

県議、都議、市議、区議、町議、村議なら結構いい仕事をやる可能性はあるが
国の舵取りは荷が重い。

こういう人間が最高権力者になったのだから始末が悪い。
おれがおれがとどこにでも首を突っ込み混乱を招く。
しかも、手柄を吹聴する。



こういう党を選んでしまったのは国民なのだが。

2月28日(火曜日)
●昭和のゲイ
BS−TBSの「関口宏の昭和青春グラフティ」という番組。
今まで見たことがなかった。
今夜は「偏見と闘うゲイボーイ」。
井上順とカルーセル麻紀がゲストだった。

冒頭から銀座青江のママが登場。

時計の針が超高速で昭和40年代に逆戻り。
あの頃のことが思い出され、つい最後まで見てしまった。



青江のママと彼女の店の一行と向かい合わせになったのは、
昭和41年頃だったろうか。
場所は熱海のなんとかいうホテルの大広間。

夕方に到着し浴衣に着替え風呂に入り大宴会が始まろうとしていた。

当時、銀座1〜8丁目の飲食店組合は春・秋に慰安旅行を行なっていた。

入社2年目というのに、酒だけはいっちょ前で、
銀座1丁目に行きつけの店があった。
そこの従業員ということで同じ会社の1年先輩と参加させてもらった。

ほろ酔いでトイレに立ったら自分の席に戻るのも一苦労というほどの大集団。

有名無名のクラブ、バー、スナック、小料理屋などの経営者と従業員、
つ〜ことは、ママやホステスさんたちも一同に顔を合わせるのだから
その華やかさといったら尋常でない。

目の前に艶やかな女性がいた。

通っていた店の女将が「青江のママ」と小声で教えてくれた。
店の名前とどういう店かくらいは知っていたが、
駆け出しのサラリーマンなどが顔を出せるところではない。

まじまじと見るのは失礼なのでチラ見をしていた。
かなり厚化粧だが不自然ではない。
男なのだが、色っぽい大年増。
舞台役者のようだった。

従業員全員ゲイボーイなのだが、完璧に女性らしいのは少なかった。
中にはデブもいて、彼女いや彼は狂言回しのような役割だった。



宴たけなわになると、あちこちから嬌声が聞こえてくる。
ゲイボーイたちもしなをつくる。

それぞれの店に行かなければ体験できない独特の雰囲気を
一挙に味わえるのだからこんな贅沢はありまへん。
これだけでも来た甲斐があるてなもんだ。

舞台ではのど自慢が始まる。
出演者には金一封。

最後はお楽しみ抽選会。
舞台には家電品、調度品などが山積みだ。
さすが、銀座水商売のご一行。
派手である。

司会者が商品と当選番号を読み上げる。
参加者は手にしたカードを見ながら一喜一憂。

サイドボードの番号が、なんと私のカードだった!

壇上に呼ばれ、なんとかいう歌舞伎役者から目録を受け取った。
そときの記念写真がいまもどこかにあるはずだ。



後日、自宅にそれは送られてきた。
不思議がる家族に、
行った先の商店街でくじ引きをやっていて当たった、と答えておいた。



銀座1丁目には「オカマ」と「オナベ」がいるスナックがあった。
女っぽい男と男っぽい女なのだが、
酔っ払ってくると、何がなんだかわからなくなり混乱の極みだったが。

その後、銀座1丁目の広告代理店から8丁目の広告代理店に移った。
7丁目の銀巴里は表通りに出るため必ずその前を通る。

銀巴里に主演していたシスター・ボーイ「丸山明宏」を見かけたのはその頃。
小柄だが目が大きく鼻も高い美形だった。
腰を振りながら歩くのが奇異に映った。



そんな昭和40年代の銀座だったが、
すっかり様変わり。
たまに、青春の地を訪れるが完全に異邦人である。

2月23日(木曜日)
●ノマド 野窓?
IT関連の記事を読んでいたら「ノマド・ワーカー」つ〜未知の言葉に遭遇。
で、ググってみた。
「ノマド」とはノートパソコンやモバイル機器を使って
オフィス以外で仕事をするスタイル。
実践する人々を「ノマド・ワーカー」と称する。
語源は「nomad」遊牧民なんだそうだ。

ふ〜〜ん。

そ〜いえば、都心のカフェでそういう姿を見かけるだけでなく、
35キロ圏のわが町の数少ないカフェでもたまに存在する。

インターネット上にはノマドに関する情報が結構多い。
いくつかのサイトを読み比べて見た。

ノマドの王道は、
ローカル都市に仕事でやってきた営業マンが駅付近のカフェで
モバイルPCを開きExcelで数字を再確認したりするような仕事スタイルではない。

銀座、青山、渋谷などおしゃれな地域で、
クリエィティブやプランニングに従事する連中が
こじゃれたカフェでかっこよく仕事をこなす姿がイメージできる。

もちろん、横浜、さいたま、千葉、宇都宮、水戸、高崎でもかまわないのだが、
流行の発信地のほうが、よりサマになるのだろう。



創造的な仕事に従事する、とくにフリーランスと呼ばれる連中は
昔からそういう仕事のスタイルだった。
クライアントの近くに個人事務所のある奴は、そこで仕事をするが、
都心まで1時間以上かかる自宅兼事務所の場合、
喫茶店を第二の仕事場にせざるを得ない。

ワープロ専用機や初期のノートPCはあっても、
インターネットはもちろん携帯電話など存在しない時代だから、
紙と鉛筆ときに辞書が仕事のツール。

原稿用紙を広げしこしこ枡目をうめる姿はカッコ悪いので、
メモ用紙にアイデアを殴り書きしたり、
コピーの構成を書き留めたりしていた。



スマートフォン、iPad、薄型ノートPCなど
高性能ハードウェアとインターネット+カフェで
「どこでも仕事場」の環境は整った。

アイデアプロセッサという範疇のソフトを使えば発想を支援してくれるが、
発想のプロセスは自分の論理的な思考と感性による。
企画書作成もワードプロセッサを使えば見栄えのいいものが作成できる。
だが、肝心な内容は発想のプロセスと同様。

機器に囲まれても、やっている頭脳作業は昔と変わらない、
最後はクライアントと顔をつきあわせ会議を行い
方向性を決めるというスタイルは昔と変わらない。
考えを的確に相手に伝えるのは機器ではない。



IT機器を上手に扱えるだけの「ノマド・ワーカー」ではど〜しょ〜もない。

2月10日(金曜日)
●ダウンフォール
2時間超の動画がYouTubeに2年前の2月にアップロードされていた。

この映画はロードショー館が少なく渋谷のシネマ・ライズに出かけた。
2006年7月だった。

「ジャッカルの日」「ワイルド・ギース」といった海外作品は
フルバージョンがアップロードされているが、
ほとんど日本語字幕がない。
つたない語学力ではとうてい太刀打ちできないので
そのままにしてあるが「ダウンフォール」は例外だ。



「ダウンフォール=没落」=「ヒトラー最期の21日」となる。

つまり、あの名作映画が、まんまアップロードされていたのだ。

ドイツ人監督、ドイツ人俳優によるドイツ語の映画。
ヒトラーが自殺に至るまでの総統地下壕での生活が生々しく再現される。

それもそのはず。
ヒトラーの個人秘書で、常に総統の傍らでタイプライターで
口述筆記をしていたユンゲが奇跡的に地下壕から脱出。
戦後はひっそりと生きていたが、かなり経過して当時の様子を語った。
そのため、推測ではないリアルなシーンが描かれることになった。



映画は英語の字幕だが、画面を停止して翻訳にかければなんとかなる。

珍しいのは、ヒトラーの愛人、エヴァ・ブラウンの妹グレートルと結婚した
ヘルマン・フェーゲラインSS中将が登場することだ。


※フェーゲライン本人

※映画のフェーゲライン。ハインリヒ・ヒムラーと話している。
 ヒトラーの愛人、エヴァ・ブランの妹と結婚していたので、こんなセリフとなっている。

プレイボーイだったフェーゲラインは、結婚後も愛人とうつつをぬかす。
しかも、アルコール依存症気味。

地下壕を脱出し愛人宅で泥酔していたところを逮捕される。
1945年4月29日、射殺。
エヴァ・ブラウンはヒトラーに嘆願したが聞き入れられなかった。


※軍需相シュペーアと1000年帝国のベルリン中心部のモックアップ。
 「ゲルマニア」と呼ばれる壮大な計画だったが水泡に帰そうとしてた。


※ヒトラーは敗戦を認める。


※秘書は自殺用の青酸カプセルをヒトラーから渡される。


※ユンゲはここで死のうと思うが…


※死を間近にしても明るく振る舞うエヴァだったが。


※死に化粧を始める


※地下壕に残った秘書たちに別れを告げ、自室に消え、二人は自殺する。

翌日、ヒトラーとエヴァ・ブランは自殺。

バイエルンに疎開していた妻・グレートルは妊娠中だった。
翌月5日にフェーゲラインの子である娘を出産した。



この映画ではゲッペルス夫妻の最期が克明に描かれていた。
彼のファミリーはヒトラーが自殺した翌日、5月1日に全員死去。


※総統に殉ずることを選んだゲッペルス夫妻


※無邪気な子供たちは、やがて正装させられて青酸カリで短い人生を終える。


※ゲッペルスは妻を拳銃で撃った後、自分も自殺する。

妻、マグダは子供たちと地下壕からの脱出をヒトラーに懇願したが許されなかった。
夫妻には6人の子どもと前夫との子ども1人。
5人の女児はみな可愛く、生き延びられたら美人に成長しただろう。

先に青酸カリで殺された年かさの2人の子どもは、毛布に包まれ官邸裏手に掘られた穴に置かれ
ガソリンをまかれて焼かれた。
小さな子供たちは、睡眠薬入りの風邪薬で眠らされ、
母マグダが、子供たちの口中に青酸カプセルを押しこみ、
顎を押して砕いて殺害。遺体は焼かれることはなかった。

子供たちを見送った夫妻は、
官邸裏手に出て、ゲッペルスがマグダを射殺。
自らもその拳銃で自殺。

2人の死を確認した兵隊たちが、
穴に安置しガソリンを撒いて焼いた。

(事実は、
ヒトラーはゲッペルスに生き延びることを命じたが、
彼は一家心中の道を選んだ。)
マグダと前夫との息子ハラルトは軍人で捕虜となり生き延びることができた。


※実際のゲッペルスファミリー



「ヒトラー最期の21日」はDVDが発売されているが、
ドイツ語版は、お宝として保存。

2月9日(木曜日)
●ヒトラーの野望
欧米のヒトラーに対する関心は根強いものがあるらしく、
YouTubeにはおびただしい動画がアップロードされている。

当初は、細切れの動画を見ていたが、
最近は45分物や1時間半を超すものが多いことがわかり、
(分割されていることもある)
もっぱらそれをダウンロードして鑑賞するようになった。

「第二次大戦 ヒトラーの野望」日本語版というのがある。


ナチスが政権をとり合法的にヒトラーを頂点とする独裁国家を形成する過程や、
西ヨーロッパ侵攻の成功と、バルバロッサ作戦というソ連侵攻の失敗について
豊富な記録フィルムを用いて構成されている。

徹底した人種差別でユダヤ人を排斥したことはよく知られているが、
黒人、ジプシーまでが対象になっていた。

例えば、フランス侵攻でパリを無血占領した際、
大勢のフランス兵に混じって、アフリカ植民地から招集されたアフリカ兵がいた。

彼らに食事を与えず、空腹の極限に達したとき、生きた山羊を与えた。
アフリカ兵たちは彼らが母国でやっているように、
生きたまま殺し、血、肉、臓器を争って奪い合っていた。
ドイツの宣伝部隊はその様子をフィルムに収め
「アフリカ兵に頼る没落国家フランス」というプロパガンダに使った。
その後、6000千人ものアフリカ兵全員を銃殺したという。

ナチスはフランスを制圧した後、ポーランドへ牙をむく。
そこには流浪の民ジプシーが数十万人生活していた。
彼らを殺戮すると同時に、女性には子供を産めなくする手術を行なった。

ポーランドでは、約300万人のユダヤ人を隔離住居区「ゲットー」に押し込めた。
映画「戦場のピアニスト」では、そのあたりのことが描かれている。
その後、ゲットーから強制収容所に送られ、
さらに絶滅収容所に移送された彼らは、ガズ室に送られた。

長編テレビドラマ「ブラザーフッド」では、アメリカ軍の先遣隊が
絶滅収容所を発見し、その異常な環境に顔を引きつらせるというシーンがある。



第二次世界大戦後にイスラエルが建国されるまでユダヤ人は世界各国に散らばっていた。
国家喪失には、長い歴史があるため、欧米では文化人、科学者も多いし、
金融、マスコミを握るという傾向があった。

キリストを売ったユダの末裔が上流階級にいることは、
庶民、下層階級からすればあまり面白いことではない。
ヒトラーの出現で、彼らが一掃されることで溜飲を下げる人々も多かった。

まさか、あんなことまでしているとは多くの人は知らず、
彼らはナチス政権を支持していたのだ。

第一次世界大戦の敗戦で国家は疲弊し、意気消沈していたドイツ人に職を与え、
経済を立てなおしたナチスに経済界も資金提供を行なっていた。

人種差別と戦争による経済立て直し。
ヒトラーの野望は、結局危険な賭けだった。

2月8日(水曜日)
●凄みのあるカメラ
デジタルカメラはCANON、Nikonが二強で、
Panasonic、SONY、オリンパス、CASIO、Pentaxなどが後に続く。

コンパクトデジカメは市場が飽和状態で、
デジタル一眼、レンズ交換式デジタルに各社が力を入れ始めた。

特にオリンパスが提唱するマイクロフォーサーズ規格は人気上昇中。
Panasonicも同規格機を多数発売する。
これにあやかり、SONY、Pentax、Nikonも自社規格の
レンズ交換式デジタルカメラを発売した。

残るCANONがいつ参入するかだが、まだアナウンスはない。
CANONはデジタル一眼のラインアップが豊富。
初心者からプロまでの機種が揃っているので
あえて、価格的に競合するゾーンにレンズ交換式デジタルカメラを投入するか。
流れには逆らえないのか。
興味のあるところだ。



そんなところへ、富士フィルムからとんでもない機種がアナウンスされた。
「FUJIFILM X-Pro1」。
「レンズ交換式ノンレフレックスカメラ」と呼ぶようだ。



デジタルだが、顔つきは昔のレンジファインダー式35ミリカメラそっくり。
ライカMシリーズより高級感があるように思える。

交換レンズは3本用意されるが、
お手軽ズームはなし。
35mm判換算28mm/50mm/90mm相当の単焦点のみ。

ボディの予想価格は15万円前後。
レンズはいずれも5万5,000円〜6万円前後。
システムで21万円。かなりの高級機。



奇抜なデザインを競った試行錯誤の時代を経て、
デジタルカメラは、特にレンズ交換式は先祖がえりしているようだ。

昭和30〜40年代のカメラは金属部分が多く重量があった。
現代は、パーツの多くに硬質プラスチックが使われているので見かけほど重くはない。
が、高級機はボディにアルミダイキャストやチタンを使うのでそれなりにずっしりくるのだろう。

ボディが重いとしっかりホールディングするので手ブレは少なかったが、
いまは、手ブレ防止機能がついているし、
35mmフィルムと違って残りの枚数を気にする必要がない。

日記がわりに記録するのなら安いカメラでも構わないが
所有する喜びつ〜のを考えると
なるべくいい機種が欲しくなるのは仕方ない。

2月7日(火曜日)
●映画 g@me
金を払って日本映画を見ることはほとんどないけど、
インターネット上ではたまにある。

寝る前に映画を検索したのがいけなかった。

「広告代理店」「クリエイター」という文言が飛び込んできた。



映画もテレビドラマも広告業界を扱ったものは少ない。
その昔、カーク・ダグラスの「アレンジメント」を見たことはあったが。

※「アレンジメント」

「愛の旋律」という副題がついているとは知らなかった。

1969年の映画だから、私が広告業界に入り4年目のことだ。
カーク・ダグラス、フェイ・ダナウェイのイメージが強いが、
デボラ・カーのことはまるで抜けている。

業界の切れ者として知られるカーク・ダグラスの人生の軌跡と
家族、昔の恋人がからまっている。

当時、ニューヨークのマジソンアヴェニューは「潰瘍通り」と言われた。
そこには大小の広告代理店が集まり、広告に従事する連中(アドマン)は
激務をこなすので、多かれ少なかれ胃潰瘍を患っているので、そう呼ばれていた。

日本でいえば銀座界隈だった。
モンスター「電通」をはじめいくつもの代理店の本社、支社があった。

当時、銀座の広告代理店に勤務していたので、
同業の映画として「アレンジメント」を見たような気がする。

フェイ・ダナウェイは、1967年「俺たちに明日はない」に出演し
存在感を示していた。
美人ではないが都会的なセンスの持ち主だった。
反社会的な物語のヒロインにはうってつけだ。

「アレンジメント」でも、
社会的に成功し幸せそうな家族を築いた男の周囲にあって
蠱惑的な魅力をふりまく。

フェイ・ダナウェイはカーク・ダグラス演じるエディの昔の彼女グエン。

激務と人間関係に疲れたエディは、地位も家族も捨て
グエンとの静かな生活をはじめる、というものだった。
だから、「愛の旋律」などというメロドラマ風のサブタイトルがついていたのだ。



結局、映画「g@me」を寝る前に見ることになってしまった。

2003年の作品だが、まるで知らない。

ガラス張りの近代的なビルに入る広告代理店。
主人公の青年はプランナー。
プレゼンテーションは昔と大違い。
立派なプレルームで映像を駆使し、まるで本番のようなCM流され、
CGで作成されたイベント会場が投影される。

主人公は海を見渡せる広々としたマンションに住む。
乗り回すクルマも高級外車。
維持費だけでもサラリーマンでは無理だと思うが、そこは映画だもんね。

相手役は仲間由紀恵。
大クライアントの娘という設定。

業界のインサイドストーリーかと思ったら
犯人の視点から語られる「誘拐」物だった。

パソコン、インターネット、携帯電話を駆使して誘拐劇が展開される。
さすがに電話は「スマートフォン」ではなかったが、
公開当時の先進IT機器が使われているといのも斬新。
ノートPCはSONYのVAIOだった。

ドラマは2転3転どころではない。
4転5転し、さらにどんでん返し。

最後まで見てしまい、寝るのが深夜になってしまった。



凝った作品と思ったら原作は東野圭吾だった。

『ゲームの名は誘拐』。
2002年に光文社から刊行された東野圭吾の長編小説。
小説は自動車会社だが映画のクライアントはビール会社になっている。



「新参者」「ガリレオの苦悩」はインターネットで見ている。
トリックは東野圭吾らしい。
映画「g@me」もその路線上にある。

2月6日(月曜日)
●男勝りのテスト・パイロット
ハンナ・ライチュという女性パイロットの存在はあまり知られていない。


※数々の功績により二級鉄十字勲章を受けるハンナ・ライチュ。女性では2名しかいない。


※故郷に錦を飾る。

例えば、平凡社の大百科事典に彼女の名前があるかどうか?
もう手元には無いのでわからないのだが。
だが、ウィキペディアにはある。
場所をとるだけの知識の砦は無用の長物に成り下がってしまったか。



ヒトラーを調べていたら彼女の名前にぶち当たった。



赤軍に侵攻され熾烈なベルリン市街戦が行なわれていたさなか、
ブランデンブルグ門に近い通りに急造された滑走路に
軽飛行機シュトルヒが奇跡的に着陸した。
ヒトラーが自殺する4日前、1945年4月26日のこと。


※市街戦のベルリンに向かう


※ブランデンブルグ門


※当時のことを語るヒトラーの秘書、トラウデル・ユンケ
 映画「ヒトラー最期の21日間」では、彼女の手記のかたちではじまる。

操縦していたのはローベルト・フォン・グライム空軍上級大将。
ゲーリングの後任としてヒトラーからドイツ空軍総司令官および元帥に任命されるためだった。
飛行機が被弾し彼は負傷する。
同乗者のライチュが操縦を代わり着陸。
(彼女はグライムの愛人だった)

総統地下壕で3日間を過ごし、
ヒトラーはじめ要人、エヴァブラウンと会い、
ゲッベルス夫人・マグダ・ゲッベルスから先夫の息子へ宛てた手紙をも受け取った。
2人はアラドAr96高等練習機に乗せられてベルリンからの脱出に成功した。

ベルリン陥落後まもなくライチュはグライム元帥空軍総司令官と共に米軍に捕われ、
“重要犯罪人”として情報将校らに尋問・取調べを受けた。
戦闘のさなか総統官邸付近に飛来したことが
「ヒトラー脱出のため」という疑惑を抱かれていたのだ。

グライムは身柄を赤軍に渡されると知り、1945年5月24日に青酸カリ自殺。
この毒薬はヒトラーから授かったものだった。
(ライチュも同様だったが、使うことはなかった)
ライチュは15ヶ月間の拘留の末に釈放された。
だが、彼女の父は母・姉妹・姉妹の子供らを道連れに一家心中を図っていた。



彼女は子供の頃から空に憧れていた。
それが高じてやがてグライダーの魅力にとりつかれ、
さらに、高じて若き日のヘルマン・ゲーリングも通った航空学校で学ぶ。


※飛行機好きの女性だった。


※第一次世界大戦当時のヘルマン・ゲーリング。
 「レッド・バロン」リヒトホーフェン航空隊の若きエースだった。

やがて空軍とコネクションが生まれ、テスト・パイロットとなる。
活躍は目覚しく、世界初の実用ヘリコプター、ロケット戦闘機、ジェット戦闘機など
男性も尻込みをする危険な飛行を155cmという小柄な彼女が成功させる。


※ヘリコプターのテストを行う。

メッサーシュミット・ロケット戦闘機ではあまりの高速のため
着陸時に小さな機体はひっくり返り重傷を負うが、みごとに復帰する。
このときの体験を、戦後「砲弾のように高速」と表現していた。


※秘密兵器、メッサーシュミットのロケット戦闘機。


※乗り込むハンナ・ライチュ。


※轟音と共に急上昇!


※着陸に失敗し重傷を負う。


※米軍に逮捕される。

戦後は、
1959年、ネルー首相に招かれインドへ。
1961年、ジョン・F・ケネディ大統領に招かれアメリカへ。
1962年から1969年にかけてガーナに滞在し黒人初のグライダー飛行学校を作った。
1970年代からライチュを撮っていたアメリカの写真記者から大戦中での痛恨事をインタビューされた際、
戦時中の国家社会主義(ナチズム)への傾倒を恥じていないこと、
未だにヒトラーから授与された鉄十字章を身に付けていることを述べていた。


※亡くなる3年前のハンナ。

1979年にフランクフルトにて心筋梗塞で死去。67歳没。生涯独身。



彼女がテストしたロケット戦闘機の設計図はUボートで日本軍に渡される。
日本では「秋水」の名で試作機が作られた。


※日本軍が作成したロケット戦闘機。

設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、
横須賀海軍航空隊追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。
テストパイロットは犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)。
しかし、飛行場西端に不時着大破した。
消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。
意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、
頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した

秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことはなかった。



秋水(しゅうすい)は太平洋戦争中に日本がドイツ空軍のメッサーシュミット
Me163の資料を基に開発を目指したロケット推進戦闘機。
機体は海軍、エンジンは陸軍が担当、陸海軍共同して開発研究した。
正式名称は十九試局地戦闘機秋水、海軍の機種番号はJ8M、陸軍のキ番号はキ-200。

2月5日(日曜日)
●独裁者と同調者の最期
映画「ヒトラー最期の21日間」では、当時の模様が克明に描かれている。

総統官邸地下壕に避難したヒトラーと要人はその時を迎えようとしていた。
警護の兵士たちは酒に酔い自暴自棄気味だ。


※ヒトラーとエヴァ・ブラウン


※ヒトラーの愛犬ブロンディ

ヒトラーはシェパードの愛犬ブロンディに青酸カリを与える。
それからエヴァ・ブラウンの待つ自室にこもる。
彼女は長いこと愛人だったが、
いよいよ最後の時を迎えることとなり、地下壕でヒトラーと結婚する。
ヒトラーが用意した青酸カリを飲み自殺。
そして、ヨーロッパを混乱の極みに陥れた張本人は小型のワルサーで自決。

ドアの外では官房長官ボルマン、宣伝相ゲッペルスがその時を待っていた。
拳銃の音とともにドアを開けヒトラーとエヴァの死体を運び出す。
官邸裏には大きな穴が掘られており遺体を安置しガソリをまいて火をつけた。

塀の向こうから迫り来る赤軍の銃声が絶え間なく聞こえてくる。

ゲッペルスは地下壕に戻った。
5人の幼い子供たちはすでに薬殺されていた。
妻マグダに青酸カリを与え、自身も薬をあおり自殺。
こうしてゲッペルス一家はヒトラーに殉じた。

武官により官邸裏庭に運び出された夫妻の遺体は
ヒトラーと同じようにガソリンで焼かれた。

ボルマン、SS長官ハインリヒ・ヒムラーは官邸を脱出する。

こうして主な閣僚は自滅する。
生き残ったヒトラーのタイピストが回想するという設定で
映画は終わる。



ドキュメンタリー「Adolf Hitler's Last Days」は、
総統官邸を占領した赤軍が、
ヒトラーと思われる遺体の検分をするシーンから始まる。



※自信に溢れ生気みなぎる頃のヒトラー


※最期の公式写真

頭に銃痕がある。
顔が克明に映される。
ヒトラー最期の公式写真と比べ違和感があった。

年端も行かない少年兵を激励するヒトラーの顔は
疲れきり、むくんでいたが、
自殺後のそれは若すぎるという印象だ。


※検死する赤軍


※ヒトラーとされる男性の遺体

このため、ヒトラー生存説が一時期流れる。

ゲッペルスの黒焦げの遺体があった。
そして、焼かれずに残ったゲッペルスの子供たち。


※ゲッペルスの黒焦げ死体


※美人だった妻、マグダの遺体(左)


※毒殺された子供たち(女の子が多い)

ハインリヒ・ヒムラーは一兵卒の制服に着替え逃亡を図ったが逮捕される。
大物とバレてしまい、青酸カプセルで自殺。


※自殺したヒムラー

航空相ゲッペルスは逮捕されニュルンベルク裁判で有罪となる。
が、獄中で青酸カプセルで自殺。
焼かれた遺体は刑務所脇の堀に流されたらしい。


※自殺したゲーリング


※自殺に用いた青酸カプセル

副総統ルドルフ・ヘスは大戦末期、イギリスへ渡り講和を図るが
勝手な行動にヒトラーの怒りをかう。
そのままイギリスに監禁されていたが、ニュルンベルク裁判で終身刑。
ドイツのシュパンダウ刑務所で老年になって自殺。

ボルマンは南米逃亡説が長い間あったが、
官邸脱出後、死亡というのが事実らしい。


※絞首刑に処せられる軍人



一時期、栄華を誇ったヒトラーの願望、1000年帝国も瓦解するときは
あっという間だ。

無辜の子どもや犬を道連れというのが悲しいね。

2月4日(土曜日)
●Google日本語入力
普段はMicrosoft Office IME2010を使っている。
漢字変換が相変わらずもたつくことがあった。
Google日本語入力の安定版がアナウンスされたので、
再び試してみることに…。


※シンプルそのもの

Googleはインターネット上から常に最新語を収集していることもあり、
うろ覚えの単語でも途中まで入力すると入力位置に候補が表示される。
これは結構便利だったが、
以前使っていたときは、テンキーから数字を入力しても全角表示された。
Excelでは確定すると半角数値になるが、Wordでは、再変換する必要があった。
「設定」メニューに切り替えがない。
F10キーを押せがいいのだが、そのワンアクションが面倒で外してしまった。

今回、それが改善されていた。
久々に使う入力環境だが、キビキビ小気味良い。

試しに昔の映画俳優の名前を入力してみた。
「おおこうち」と入れると
大河内奈々子をはじめ新旧のタレント、著名人の一覧が表示される。
私が欲しかったのは「大河内傳次郎」だったが、候補の中にちゃんと用意されていた。

確定後の再変換もOK。

当分Googleでいってみることにした。

こうして、環境はGoogle漬けとなってゆく。

2月3日(金曜日)
●オットーという男

「オットーと呼ばれる日本人」は木下順二の戯曲。
名作「夕鶴」の作者がゾルゲ事件を扱ったものだが
民話とコミンテルンでは扱う世界の落差が大きすぎる。
だが、彼が左翼の文学者で共産党シンパだったという事実を知ればなっとく。

戯曲での「オットー」は朝日新聞記者・尾崎秀実のコードネームだが、
「オットー・スコルツェニー」はナチスドイツの軍人だ。

最終軍歴SS中佐。

ヒトラーのボディガードから出発したSS(親衛隊)だが、
次第に規模が拡大し国防軍に対抗するような武装親衛隊が生まれた。
だが、ユダヤ人虐殺や占領地での殺人に積極的に加担し評判が悪い。

スコルツェニーが所属したのは武装SSでも
ヒトラー直属の特殊部隊SSフリーデンタール駆逐戦隊。
スコルツェニー自身が発案し総統も創設を認め指揮官に推挙された。
この部隊が謀略戦で神出鬼没の働きをする。
安全な場所で戦略を練る参謀でなく戦線指揮官として自ら先頭に立つ。

出し抜かれた連合軍は彼を「ヨーロッパで最も危険な男」と形容するようになる。



彼の顔には特徴がある。
頬に大きな傷。
いわゆるスカーフェイス。



これは青春時代の名誉の切り傷。

1908年というから明治41年生まれ。
オーストリア生まれの彼は学生時代にフェンシングに熱中し
あげくの果てに決闘を15回も行い10回目に負傷し
一生消えない傷が頬に残ったとされる。
原因は女性をめぐるものか、なんらかの名誉を傷つけられたものか不明。
もっとも、ドイツ、オーストリアにはアカデミック・フェンシングという
学生同士の決闘文化というものがあったという。
原因はともあれ、勇敢さを誇示するものではなかったか。



※決闘後、頬が血だらけのオットー



大学卒業後、技術者の道を歩んでいたが、1931年(昭和6)年、
オーストリアナチ党に入党し、ナチの民兵組織「突撃隊」に入隊。
その後親衛隊、武装親衛隊に代わり、
ヒトラーが創設を望んでいたいたコマンド部隊を組織し指揮官におさまる。



謀略部隊だからその存在は秘匿されていたが、
彼の名を一躍有名にしたのが「ベニト・ムッソリーニ」救出「アイヒ(柏)作戦」。

日独伊枢軸軍事同盟の一翼を担うイタリアだったが、軍備は旧式で貧弱だった。
ナチスドイツの怒涛の西ヨーロッパ侵攻に刺激され、
北アフリカに侵攻したのはいいが、劣悪な装備で連合軍に制圧されてしまう。
ムッソリーニはファシスト党内紛で失脚し「ドゥーチェ」の地位を追われる。
そして新しい政権はさっさと降伏。
ムッソリーニは、ある場所に幽閉されてしまう。



ムッソリーニの利用価値がまだあると考えていたヒトラーは、
オットー・スコルツェニーに救出を命じる。

1943年7月、ヒトラーによって選ばれた空軍と陸軍の精鋭部隊が組織され
オットーが指揮することになった。

イタリア軍はムッソリーニの幽閉場所を転々と変えていたが、
9月12日、アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」であることを突き止めた。

(と、書いてしまえば簡単だが、2か月の情報収集の方法を詳しく知りたい)

10人乗りのグライダー数機で、音もなく山頂に到着した特殊部隊はホテルを急襲。
ムッソリーニを無傷で救出する。


※救出直後のムッソリーニ


※指揮官、オットー

ローマへと連れ出され、そこからヒトラーの指揮所ヴォルフスシャンツェでヒトラーと会う。

ムッソリーニは北イタリアを掌握したナチス・ドイツの支援によって
イタリア社会共和国を建国し、国家統帥兼外務大臣として復権を果たす。

が、ドイツの傀儡政権で、胃潰瘍を患い気力体力ともに衰えていたムッソリーニに
昔日の面影はなかったという。



この功績により中佐に昇進したオットーは騎士十字章を受章。
快挙をナチスドイツは最大限に利用した。



受章式が盛大に行われ、ヒトラー、宣伝相ゲッペルスが賞賛し
その模様は記録フィルムに収められ配信された。
お蔭で、21世紀の今日、当時の模様をインターネット上で見ることができる。



ドキュメンタリーによると、オットーの特殊部隊の守備範囲は広く、
フロッグマンによる敵基地の水中からの攻撃。
魚雷を抱いた一人乗り潜航艇による攻撃など、紹介しているが、
実戦投入されたかどうかは不明だ。



特殊部隊の主な作戦は誘拐、要人暗殺、謀略だ。



チトー誘拐失敗

戦後、ユーゴスラビアの首相兼国防相を務めたチトー。
大戦中はパルチザン指導者だった。
1944年5月25日実行された「レッセルシュプルング作戦」は、彼を誘拐し、
バルカン半島における共産主義抵抗勢力を壊滅させることだった。
しかし、急襲部隊が到着する寸前に司令部のある洞窟から脱出し作戦は失敗。



偽装部隊によるかく乱作戦。

これは映画にも取り上げられる有名なオペレーション。
アメリカ軍の制服を着たドイツ兵を、アメリカ軍の前線に潜入させ交通妨害させた「グライフ作戦」。
アメリカで過ごしたことのある兵隊が選抜され、
アメリカ兵のクセ、発音、彼らの好むジョークなどが徹底的にたたきこまれた。

1944年10月21日、オットーはヒトラーに作戦実行を命じられた。

映画「バルジ大作戦」か「史上最大の作戦」では、
米軍のMPに偽装したドイツ兵が進軍先の標識を逆にして
戦車を誤った方向に誘導するというものだ。

十分な燃料があるはずのアメリカ軍なのに、
偽装部隊の燃料はカラのドラム缶。
川に落下してそれがばれてしまう。

捕虜になった彼らは
アメリカ軍の制服を着ていたため
スパイ、戦争犯罪人の扱いを受け、即座に射殺されてしまう。

ドキュメンタリーでは、貴重な実写シーンがあった。
お宝映像だ。



1945年4月ヒトラーの自殺でドイツは降伏する。
スコルツェニーは1945年5月に連合国に降伏し捕虜として収容された。

バルジの戦いでアメリカ軍の軍服を着用して偽装したことが戦時犯罪として訴追されたものの、
連合軍も同様な作戦を実施したとして無罪判決を得たが、
1948年7月27日に捕虜収容所から脱走した。

親独のフランコ総統が統治するスペインでエンジニアとして過ごす。
後にエジプトのナセルおよびアルゼンチンのフアン・ペロンのコンサルタントとして働く。


※」スペイン時代のオットー

元親衛隊員の互助組織とされる「オデッサ」で、友人数人を支援したと噂された。
フレデリック・フォーサイスの小説で映画化された「オデッサ・ファイル」にそのあたりが詳しい。
その後「SS同志会」を組織し本部をマドリードに置き彼が運営した。

晩年はアルゼンチンでセメント業を営み財を成し、
1975年にマドリッドでがんのため死去した。
葬儀はナチ式敬礼で彼を送った。


※オットーの葬儀


※ナチ式敬礼で見送る



数多いナチスドイツの将官の中で
彼ほど冒険的でドラマチックな生涯を送った人物は皆無だろう。
武装SSでもユダヤ人絶滅、捕虜虐殺に関与していなかったことが幸いした。
しかも、鮮やかな作戦で敵を陥れたことも
同じ軍人として連合軍からも一目置かれていたかもしれない。

YouTubeには、45分物の彼の動画が2本存在する。

1)Otto Skorzeny.flv(フランス語)
2)Hitler's Idols - 01 - otto skorzeny.flv(英語)


※フランス語版 意味はわからなくても、内容は理解できる

Hitler's Idolsには、オットーの娘と2人の男性の孫が登場する。

彼の肖像画が掛かる部屋で語っている。
父親、じ〜ちゃんを誇りに思っているというコメント(だぶん)。


ジョージ・クルーニー主演でオットー・スコルツェニーの
「グライフ作戦」を映画化してくれないかな〜〜。



日本には「陸軍中野学校」という謀略戦の養成機関があったが、
中国大陸や占領地でどのような作戦が行われたか明らかではない。

大映映画「陸軍中野学校」は
「眠狂四郎」で一世風靡し現代劇初登場の市川雷蔵、加藤大介が出ていたが地味な映画だった。

2月2日(木曜日)
●銀座のサテン
「サテン」という言葉自体がもはや死語。
銀座に勤務していた頃、
喫茶店はちょっとした打合せや息抜きの場所だった。
会社近くのビルの地下に「ルーク」という小さな店は制作部のたまり場で
朝食抜きで出社したときは、モーニングサービスの世話になった。

あごひげのマスターと奥さんで切り盛りしていたが
時折奥さんの妹が手伝いに顔を出していた。
ロングヘア、スレンダーのかわいい娘。
ちょっと憂いがあったりして
若い頃の鶴田真由似のアイドル的な存在だった。

後に聞いたところによると
マスターと妹ができちゃって大変なことになった、と。
当然、店は閉じた。

時代は移り、純喫茶というスタイルはほとんど消滅。
わずかに「ルノアール」がその面影を残している。
かわりに「カフェ」が大流行。
スタバ、プロント、ヴェローチェなどのチェーン店が
いたるところに出店している。

銀座に出た折、スタバ人気は高いが禁煙なので
喫煙階のあるドトールを利用する。
松屋の脇の2丁目店がほとんどだ。
角は製薬会社の三共ビルで1階は薬局とタバコを売っていたが
今はブルガリビルに変わった。

2階の喫煙階は休日に行くと
窓際はほとんど馬券を買う人で占められている。
店を出て昭和通り側に進めば場外馬券売り場だから。

ウィークディの窓際は客層が違う。
右隣りはハンチングをかぶり
イヤホンをした上品なヒゲの老紳士が読書していた。
左隣りは3人のビジネスマン。
1人はノートパソコンを開き打合せ。

街路樹のマロニエもすっかり葉を落としているので
町行く人を観察できる。
連日の寒波でおしゃれに敏感な若い女性たちも
厚手のコートやダウンに身を包んでいる。

ぼんやりと眺めていると、
学生時代から銀座にあこがれ
首尾よく銀座の広告代理店に就職できた頃が思い出される。

2丁目メルサはキャバレー「クインビー」が健在で、
ガラスを多用した店だったが古臭い造りで昼間は廃ビルのようだった。
小さな間口の店舗も多く、都電が走り…
高度制限のため同じ高さのビルが並ぶ今の銀座とまるで違う
のんびりとした雰囲気だった。

しかし、さらに昔の銀座を知る人たちには「古きよき銀座」をなつかしむ傾向があった。
それは、当時通っていた3丁目の住友銀行(今のAppleストア)の
裏手にあったサントリーバーの常連客の「老人」たちから聞くことが多かった。

そのバーもオーナーバーテンのO氏が高齢のため引退し名前も変わってしまった。
新しい店に1度顔を出したことがあるが、
あまりの変わりように、
私の時代が終わったことを感じざるを得なかった。

2月1日(水曜日)
●舌禍の連鎖反応
田中防衛大臣は就任時から不適切と思っていたが悪い予感は的中。
第一に勉強不足。
第二に喋り下手。
第三に魅力欠如。

前任の一川氏とどんぐりの背比べ。
家に帰れば奥さんに叱咤されているのだろう。
義父の田中角栄と比べて「演説へた」と述べ国会で失笑を買う。
答弁では目が泳ぎ自信喪失ぎみ。

自分の足元に火がついているのに、
管轄下の沖縄防衛局長が
選挙に介入するような「講話」を行い国会に召喚されるというドジを踏む。

沖縄基地問題で沖縄県民の信頼を勝ち得なければならないというのに、
防衛大臣2代にわたる同じ構図のドタバタでは、
ますます県民の心は離れるどころか、「軽蔑」の対象となる。

こういう連中が日本の防衛を担っていると思うと冷や汗もの。
民主党のタマ不足もここに極まれり。

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