田舎三昧の生活と意見

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Web Camera


■Contents■

01 夏ばて
02 Fujiのデジカメ
  視点122号
  戦後60年
03 だれ猫
  ばて猫
  ハルマヘラ
  MightyMouse

  破局への道
  舌好調
04 来日
  本気?
05 SNS
  突然死
  大言壮語
06 花火
  坂東太郎
  灯篭流し
  町長の失敗
  60年前
07 新名所
  60年前
08 虎視眈々
  潜水艇
  60年前
09 原爆男
  空蝉
  グレー
  続ハルマヘラ日記
  解散風一色
  60年前
10 げげっ〜
  えげつな〜
  60年前
  宇宙より生還
  佐々木引退
11 珍客
  遠吠え
  60年前
12 防戦
  60年前
13 刺客
  60年前
  増水
  雷雨
14 帰還
  60年前
  ゆるふんJAL
15 原爆投下前・後
  意思疎通
  731部隊
  戦没者追悼式
  ラテ面
  敗戦
  60年前
16 へび〜〜!
  じし〜〜ん!
  60年前
17 蝉時雨
  草いきれ
  60年前
18 水の匂い
  60年前
19 政敵
  アウシュビッツ
20 60年前
21 夏の終わり
  60年前
22 仏製ドキュメンタリー
  60年前
23 ブルーベリー
  全焼
  60年前
24 撤去
  襲撃
  60年前
25 選挙一色
  60年前
26 60年前
  台風通過
  食い物
27 60年前
28 60年前
  思ひ出づくり
29 60年前
30 60年前
  胃カメラ
  別れ
31 囲い込み
  60年前


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ご意見・感想などお気軽にどうぞ!

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   表示が遅くてすいません m(_ _)m 10日以降、写真の点数が増えるための現象です

8月31日(水曜日)

●囲い込み
面白い記事が掲載された。
広告代理店アサツー・ディ・ケイが東大と組んで
中国人留学生に奨学金を出す、というのだ。
「中国育英基金」。
全額をアサツーDKからの寄付3億1760万円で賄い
12年間、留学生75人に提供する。
対象者は中国の名門、北京大、清華大、復旦大を優秀な成績で卒業した者に限る。
東大大学院修士課程で2年間学ぶ費用(月額15万円)と往復航空運賃を支給する。
文系理系は問わず、筆記試験と面接で毎年7〜8人選抜するそうだ。

アサツーDKは、旭通信社が第一企画を吸収してできた。
両方とも戦後の会社であるが、成長著しく
今では電通、博報堂に続く国内第3位の企業になっている。
奨学金制度を創設するなど、電通がやりそうな企画だが
アサツーDKも広告代理ばかりでなく、
人材育成という公共活動にも進出してきた。
経営に余裕が生まれたのか、
深謀遠慮の戦略があってのことか。

世界は中国市場を狙っている。
奨学金制度で東大で学んだ学生は中国に帰ると
間違いなく政府や一流企業に就職するだろう。
彼らとコネクションがあれば、
日本企業の進出だけでなく、中国企業とのコラボにも有利に働く。
効力が発生するのは10年、20年先になるかも知れないが
先行投資としては悪くない。

●60年前:昭和20年8月31日

☆横浜市でアメリカ兵がビール輸送中のトラックを襲撃
※高温多湿の日本の残暑は厳しいからね〜。
 飲みすぎて軍票を使い果たしてしまった若い兵隊が刹那的な行動に出たのかね。

8月30日(火曜日)
●60年前:昭和20年8月30日
☆占領軍の帝王登場!
聯合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に上陸
※ついに、やってきた。
良くも悪しくも戦後日本の民主主義を作った人物が。

※左が本物。右がそっくりさん、ではない。グレゴリー・ペック演じるマッカーサー(松笠)元帥なのだ。
厚木飛行場に飛来しタラップから降りる有名な写真があるけど、
コーンパイプとレイバンのサングラスといった、派手なかっこだった。

※厚木飛行場に着いた元帥

☆陸軍士官学校、陸軍幼年学校解散
※軍隊を持たない敗戦日本には」無用の長物

☆ソ連が北海道占領の為の樺太での軍事行動を停止

●胃カメラ
6月の健康診断で胃に影が出ているという結果が出た。
で、本日15時から胃カメラであった。
生まれて2回目の経験だ。
水あめみたいな麻酔薬を10分口に含んだ。
喉が軽くしびれてきた。
ベッドに横たわり、右手に注射。
いよいよカメラを飲む。
食道を通過するとき、ゲゲッときた。
あとは、ぬるぬるとファイバースコープが胃袋へ進入する。
看護婦が背中をさすってくれた。
老人だもんな〜〜。
顔を上げればモニターがよく見える。
きれいなもんだ。
と、細胞を切除する針金みたいなものを差し込んだ、
一瞬、暖かい鈍痛がした。
これを3回行った。
おいおい、細胞検査かよ。
10分間だったが、ずいぶん長い時間に感じられた。
ベッドから椅子に移動。
「ここで、休んでいてください」と看護婦さん。
1時間くらいうとうとしていた。
喉の麻酔が切れるまでの処置らしい。
先生に呼ばれた。
健康診断で指摘された影はなかったが、出血している。
原因はストレスである、という。
なんか心当たりありますか?
ありますあります。
「息子」のごたごたと「子の子」養育であることは明白。
精神的に参っているとはまるで思わないが、
やはり身体の一部に出てきているのだね。

子供ができたので、やむなくくっついて、夫婦間が壊れた。
自分で問題解決できなくて、周囲を巻き込み、親に尻拭いさせる。
息子はまるで、自立できていない。

これまで、息子は「子の子」のために、関係修復ができないものかと悩んでいた。
このごたごたの期間中、息子が浮気に走らなかったのは
「子の子」を思ってのことだった。
しかし、これで活着がつく。

親がいうのもなんだが、息子は「いけ面」の口である。
つきあってくれという何人かの女を止めていた、などと豪語する。
結婚はもうこりごり。当分遊ぶ、とぬかす。
でもな〜、次回から問題が起きたら親に尻を持ってこないで、自分で解決しろ!

「子の子」問題で落ち込まれるが一番恐い。
しかし、女の問題でこじれるのは、もっとめんどうくさい。
ほどほどにしてほしいね。

●別れ
「子の子」との別れは突然やってきたわけではない。
或る日、息子のところへ越谷の家庭裁判所から書類が届いた。
そこには「保全処分」「子の引渡し」と記載されていた。
そして、家裁への出頭日も…
記載内容も呼び出しも寝耳に水だったので、当方も驚いた。
家裁の調停で決着をつけようとしていたところに、この書類である。

いろいろ調べてみると、
相手の女は弁護士を立てている模様である。
すでに長期にわたり計画していたようだ。
3月始めに「子の子」がわが家にやってきた。
それから5ヶ月。
当方は家人とともに精一杯「子育て」をした。
その間、相手は8月に
「春日部の祭りに連れて行きたいので、貸して下さい。
必ず返しますから」と、言ってきた。

季節は変わり、着る物も冬、春先、春、初夏、夏と変化した。
その間、「子の子」は水疱瘡、蕁麻疹にかかり、誕生日も迎えている。
病気になったことは、人を介して、あの女に伝わるようにしておいた。
それなのに、病気の心配をするでもなし、季節の服を送るでもなし。
何一つ母親らしいことはしなかった。

この女、亭主がある身でありながら
何をとち狂ったか、パートで働いていた食堂に顔を出す
廃棄物処理の運転手とできてしまった。
抱かれたときに肌で感じる汗とゴミのにおいに痺れたのかね。

そういうわけで、5歳年下のあんちゃんに夢中で
自分の腹を痛めた子供など眼中にないのだと思っていた。
母親は運送業の男と浮気し、娘は廃棄物業者の運転手と浮気。
親子2代にわたる、運転手とのだらしない関係である。

その母親は息子に言ったそうだ、
「夫婦関係がぎくいしゃくしていれば、
ほかの男性がやさしい態度で接してくれば心を開くのは当然でしょう」と。
なんたるこっちゃ。
浮気を正当化しようとしている。
石田純一と同じ「不倫は文化」なのである。
この親にしてこの娘あり。
子は親を見て育つ」のだね。

母も娘も、心だけじゃなく股も開くという
「男好き」「淫乱」の系譜だったのだ。

母親の亭主は別居状態で近くの町営住宅に住んでいた。
ところが、3月、ホームセンターの駐車場で、
車の間から自転車で飛び出し
車にはねられ死亡してしまった。

一般的には不幸な話しだが、
別居中の妻には、加害者からの保険金とかけておいた生命保険が入ってきた。
浮気相手とは長年のつきあいらしく、
夫には気持のひとかけらもないだろうから、
火事場の焼け太りならぬ、亭主が死んで大金がころがりこんできた。

母親は深夜のパート、娘は昼間のパート。
同居の兄貴は、引きこもり中。
住居は2DKの下駄履きアパート。
戸建の家に囲まれ、緑など皆無。車の往来がはげしい。

こんな状態の家族では150〜200万円も積んで弁護士を雇えるわけがない。
だから、家裁の調停で、と思っていたこっちの読みが甘かった。
敵は、死んだおやじの保険金の一部を弁護士費用に回したのだ。
娘が浮気をしていることなど気づかづ、死んでいった親父もあわれである。
もし、「子の子」が、以前のように親父に預けられていたら、
必ず自転車の後ろに乗せていたろうから、
「子の子」も一緒に犠牲になっていたことが濃厚である。
わが家で育てられていて命拾いしたのだ。

子供を金で買い戻す。
母性のかけらもない母親の元に子供を戻していいものか、と思うが、
先に訴訟を起こしたほうが有利なのだそうである。
仮に、息子が闘おうとすれば、同等の金額が必要になる。
30ちょい過ぎの男には無理な金額だ。
私が飛行機に乗って、墜落し、その補償金でも入らなければね…

浮気性で家庭をかえりみない女でも、金を積めば子供を自由にできる。
子育てに優れた環境で誠意をもって接しても、
金がなければ子供を取り上げられてしまう。
不条理だが、これが現実なのだ。
いい教訓だと思い、一刻も早い離婚の成立を願うのみである。
私も早く、ああいう疫病神からとき放れたい。

10時近く、隣町のアパートに向かう。
「子の子」には出発前に、因果を含めて話しておいたが
5歳の子供に理解できるわけはない。
「いやだ、いやだ」と泣いていたが、
父親の車に乗せられたら観念したように無口になった。

浮気相手の男が勤めるゴミ屋の事務所を見ながら
アパートの駐車場の脇に車を止める。
息子は浮気女の顔も見たくない、声も聞きたくないというので、
小生が1Fの部屋を訪ね、ベルを鳴らす。

ややあって、年配の女性が顔を出す。
浮気な母親だった。
名を名乗り、用件を告げる。
ギョッとしたようだった。
奥へ引っ込んだと思ったら、今度はメガネをかけた真ん中分けの男が出てきた。
引きこもり中の兄貴だ。
彼は、言い分は全て弁護士を通して下さいと、住所を書いたノートを差し出す。
メモに記載する。
男の手が震えていた。
気の小さい奴なんだな。

再度来訪の向きを伝え、浮気女に面会を求める。
小さなアパートであるから、ドアが開けてあれば内部がよく見える。
狭い間取りで大の大人が右往左往していた。
こういう、息苦しい空間で「子の子」が暮らすと思うと可哀想になる、が運命。
やがて、いままで寝ていたのだろう、さえない女が現れる。

即刻、住民票の移動を申し出る。
それをしないと「子の子」が私のところから出ることができない。

敵は、こちらが家裁で強硬な態度に出ると思っていたのだろう。
それが、やすやすと子供を連れて来たので
真意を計りかねているようだった。
こんな女と争うために高額な弁護士費用を使う気などさらさらないぜ。

明るい日の下で、寝起きの浮気女をしげしげと見たが
肌に張りのない、目の釣りあがった意地悪そうな顔であった。

こんな田舎臭い女と子供を作ったのは息子の一生の不覚だね。
手近な女に手をつけないで、
都会的で、センスのいい女を選べよ、と息子にいいたかったね。

浮気と一番縁のないところにいそうなさえない女なのだが。
もっとも、こういう奴には、だめもとで、男は気楽に口説けるもんな。
派手な女は敬遠されるが、地味な女は虫がつきやすい。
その好例だ。

こちらが発言しようと思ったら、浮気女がさえぎった。
「弁護士に言ってください」
取り付く島なし、である。
では、「子供を戻します」
「裁判前にどういうことですか」などと抜かす。
「早めに届けたのは、せめてものこっちの誠意だと思いなさいよ」と私。

駐車場まで、浮気母親が出てきた。
観念した「子の子」は、おずおずと進む。
ばーさんは、いとおしそうに抱き上げる。
その向こうで、浮気女と引きこもり兄貴が様子を見守っている。

「子の子」も、先ほどはいやがっていたが、
やはり、4歳まで慣れ親しんだ顔と環境である。
私たちのほうに戻ろうとはしなかった。
今度はこっちで生きていかねばならない、と悟ったのかも知れぬ。
私どものことなど忘れて、あの息苦しい環境にすぐ慣れるだろう。
それは、それでいいのだ。
また、わがままでひ弱な子供に逆戻りするだろう。

150日の子育てごっこは終わった。
わが家から「子の子」の匂いのするものはすべて段ボールに押し込もう。
そうでもしないと、我が家のば〜ちゃんが落ち込みそうのだ。

あさっては、家裁である。
後学のために小生が息子に同行することにした。
そのための書類を入念に作らなくてはならない。
負けると判っている裁判だが、
あの浮気女の思う通りにはならないよ。
自分の不貞を棚に上げて、都合のいいことばかり弁護士に話したんだろうな。
万事金で済むと思うなよ。
長いこと生きてきたが、いままで出会った女で一番性悪だ。
こういう女が実際いるんだな。
息子より俺のほうがカリカリしてきたぜ。

8月29日(月曜日)

☆60年前:昭和20年8月29日
日本放送協会がアメリカからの対日放送に対する妨害電波を停止
※いわゆる、短波放送に対するジャミング。
 敗戦により謀略放送の必要もなくなった。
 やがてGHQによる駐留軍兵士向けのFENが始まる。
 本場のJAZZやPOPSが流れ、
 これを聞いて育ち、影響を受けた日本人ミュージシャンも多い。 

8月28日(日曜日)

●60年前:昭和20年8月28日
☆米軍の先遣隊が厚木に上陸。
1952年4月28日までの対日占領が始る

※60機からなる輸送機部隊が厚木基地に着陸した。これらの先遣部隊は、
人員、物資の輸送、基地の設営、マッカーサー元帥一行の受け入れ作業に忙殺された。

☆東久邇宮首相、記者会見 
国体護持・全国民総懺悔を強調
※戦争責任を国民に転嫁しようとした、あほなおっさんだぜ。

●思ひ出づくり
「子の子」が通うのは保育園だから、夏休みはない。
お盆のときなど、さすがに子供たちは少なかったが、
小生、年中無休のパソコン教室をやっているので、休暇はとれない。
従って、「子の子」も連日保育園だった。
最後の日曜日なので、午後から東武動物公園へ出かける。
近いので、自転車であるよ。
今日も親子、カップルで賑わっておりました。
1500円の入園券は近隣に配られる無料券がある。
今回は、こどもとおとなのフリーパスを買った。2枚で5000円。
これで乗物、施設は乗り放題、見放題。
1時半から5時半まで、へとへとになるまで遊びまくった。

家の窓から至近で見えるのに、なかなかチャンスがなかった。
小生、念願の「レジーナ」に初挑戦。
係員が「大丈夫ですか」と言ったがメガネはかけたままだった。
帽子は置いていったが。
急勾配を登りきると、我が家がよく見える。
残念ながら写真撮影はできない。
それからが、迫力の連続。
急勾配を猛スピードで下る、カーブする、また登る…1900mほどの
木製構造物を張りしまくる。
身体が浮く、脳はがたがた揺れる。
結構スリリングな乗物だった。

「子の子」より小生のほうが楽しんだかも知れない。

8月27日(土曜日)

●60年前:昭和20年8月27日
☆尊攘同志会のメンバー3人がピストル自殺。

☆真珠湾攻撃以来杜絶していた日米間の直通無線が再開

☆客は夜に現れた
大森海岸に小町園(占領軍向け性的慰安施設)開業。

小町園には約30人の慰安婦が集められた。
慰安婦たちは、「お国のために日本女性を守る性の防波堤」になるという
悲壮な決意の下に、RAA幹部たちが発する涙のバンザイの連呼に送られて
トラックで小町園に到着しました。
最初の「お客」(米兵)は早くも28日の夜現れたそうだ。
だが、うした施設は充分な性の防波堤にはならなかった。
占領軍が進駐した地域では慰安所があっても
米兵によるレイプ事件が8月30日から頻繁に起りはじめた。
基地周辺の家々は軒並み米兵に踏み込まれて、
男たちは縛られるかピストルを突きつけられる間に女たちがレイプされる。
白昼公道で婦人牧師が押し倒されて公衆の前でレイプされことがあったが、
だれも助けようとする人はなく、みな足早やに逃げ去ったこともある。
道を歩いている娘や人妻たちを後ろからジープが来て拉致して、
淋しいところでレイプした例も少なからず発生した。
昼も夜もそれは発生した。
米軍基地に勤務する女性たちは基地の内部でも外部でも目をつけられ
頻繁に辱しめられましたが、家族を餓死から救うために
勤務を辞めることができず、耐え忍んでいた。
こうしたレイプ事件の頻発に対してMP(米軍の憲兵)たちは見て見ぬふりをしていたし、
彼ら自身がレイプする有様なので、取り締まることが出来なかった。
日本の警察官は戦後全く無力な状態で全く頼りにならず、
彼らの中には米兵の手引きをしてレイプの手伝いをする者もいた。
こうした事件の数々は9月はじめまではいくつか新聞記事として報じられたが、
間もなくプレスコードが発令されて報道禁止となりました。
だから、「米軍の日本進駐はきわめて紳士的に行われた」というのは
占領軍のご機嫌を伺う神話に過ぎない。
GHQ(連合国軍総司令部:General Head Quarters)は9月はじめ、
連合軍用慰安施設の設置を命令し、全国各地に慰安所が売春業者(RAA)によって
開設されていきました。
占領期間中は、「GHQの命により」とか「ジェネラル・マッカーサーの命により」という
文言は一種のマジックのような絶対的権威があって、
絶対服従しなければならないものだったた。
しかし、この命令も半年で撤回された。
その原因は米軍将兵が南方の戦場から持って来た性病が慰安婦たちに感染し、
手のつけられないほど蔓延したからです。
GHQから「公娼廃止に関する覚書」が出され、
第八軍司令部は「一切の公娼、私娼の家々への立ち入り禁止令」を米軍将兵に向かって発た。
その結果、全国の慰安所は消滅していった。

慰安所は廃止されても私娼が廃止されたわけではない。
慰安婦たちはパンパンと呼ばれる私娼の群れの中に入って行きました。
パンパンとはインドネシア語で「女」を意味する
「プロムパン」のなまったものではないかといわれています。
パンパンにも二種類あって、特定の軍人を相手にするオンリーと
不特定多数の軍人を相手にするバタフライとがあった。
彼らはみな例外なく精神的にも肉体的にも病んで、虐げられて、短期間で死を迎えるが、
後から後から身をもちくずしてパンパンになる人たちが
絶え間なく補充されていったのは、
その大多数が占領軍兵士による暴行の結果だといわれている。
(出典:相模大野教会Webサイト)

※そんな歴史の事実を知ってか知らずか、日本には「小町園」という店が多い。
近くは、鎌倉「小町通り」の「小町園」ね。

8月26日(金曜日)

●60年前:昭和20年8月26日
☆無用の長物
軍需省・大東亜省を廃止。
農商務省を分割し農林省・商工省を再設置

☆性の防波堤
銀座に 特殊慰安施設協会(RAA(Recreation and Amusement Association )設置
占領軍兵士を接待する女性の募集を開始
※なんと手回しのいいことか。
敗戦後11日にして、進駐軍兵士のセックス処理用女性を募集するとは。
一般の婦女子が襲われないように、志願売春婦を募った。

戦後政府の初めての仕事が連合軍の慰安婦斡旋だったとあって、“悪評”が高い。
そのオフィスは銀座パレス(現・博品館)におかれた。
銀座八丁目に出された大看板には
「新日本女性に告ぐ。女事務員募集。年齢18歳以上25歳まで。
宿舎、被服、食料全部当方支給。」の文字が見られた。
家も家族も失った若い女性が“駐屯軍慰安”の仕事についた。

応募の女性に「水商売」経験者は殆どなく、
大半が貧しい身なりで、裸足の女性もいたという。
面接で仕事の内容を知って大半の女性は去っていったが、
それでも発足前に東京で1360人の女性が登録した。
東京で33か所、ほかの約20の都市でも作られた。

4か月後の翌年1月には、非民主的という理由で占領軍が「公的」売春を禁止しため
これらの施設も廃止されたが、廃止の最大の理由は、
占領軍部隊の性病患者の急増にあった。
施設の女性の90%が性病にかかっており、
また、占領軍のある部隊は兵員の70%が性病患者になっていた。
施設の廃止とともに追い出された女性たちには退職金もなかったという。

なお、この年4月にアメリカの抗生物質ペニシリンの製法特許が
最初に日本の企業に売られたが、その最大の目的はこの性病の対策にあった。

☆国辱的なRAA設置への過程
敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で秘密指令を発し、
占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう指示した。
準備は最大限の慎重さで行い、施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、
売春業者や関係者を動員すべしとされた。
翌19日、内閣副総理(近衛文麿)は
この案件の指揮を警視総監にみずからとってほしいと要請したが、
その数日後には方針が変更され、
この種の施設の運営に日本政府が直接関与するのはまずいということになり、
これ以後の政府の役割は、この事業を背後から支えることに変わった。
警察から事業を請負った業者は、公認官庁として
内務省、外務省などの名を連ねたチラシで「18〜25歳迄宿舎・被服・食糧支給」
と広告、「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞した。 
慰安婦募集と設備費などに、政府運営の勧業銀行は業者達に3,000万円
(現在の価値およそ70億円)の前払い金を用意したが、
この時、業者たちは皇居前に集結し、「天皇陛下万歳」と叫んだという。

☆慰安所
日清・日露、太平洋戦争を通じて、日本が占領した国々の政府が、
RAAのような団体を作り、売春婦を斡旋しただろうか?
否、である。
日本軍は、占領地に自前の「慰安所」を設置し、本土から売春婦を派遣していた。
朝鮮の従軍慰安婦問題も、ここに原点がある。

江戸時代からの伝統で日本人は「性」関して鷹揚であった。
男性本位の、公娼制度「遊郭」があり、男たちは性を謳歌していたのだ。
そんなわけで、戦争のさなかでも、敵地に「遊郭」を作るのは朝飯前。
昼間は弾を撃ち、夜は別の玉を使った。

だから、戦争に負けたら、米兵に「売春宿」を提供するなど、ごく自然な発想だったのだ。
それに、一般婦女子の操を守る、という大義名分もあった。

女性の人権を無視した、恥ずべき行為だと、時の政府は考えなかった。
近衛首相も大したことないね。

で、GHQからの要請でRAAが廃止された後、
職を失った女たちが街娼となって夜の街に立つ。
米兵相手のパンパン、オンリーとなってゆくのだ。

☆10円札
昭和21.2.25〜昭和30.4.1流通していた。
10円札の角を折ると、鉄かぶとをかぶった米兵の姿が見える、と話題になったが、
札のデザイン自体が「米」と読める、とも言われた。

子供の頃、小遣は50銭とか1円だった。
駄菓子屋へ行けば結構いろんなものが買えた。

●台風通過

11号が深夜から早朝にかけて関東地方を通過した。
9時頃は千葉から茨城を通過中。
日除けを巻き上げパラソルをたたんで台風に備えたが
埼玉への影響はそれほどでもなかった。
でも、菜園のトマトが倒れていた。
もう、収穫も終わりである。
苗を抜く作業にかからねばなるまい。

空は雨雲が後退し青空が。
雲の流れで、強い陽射しがまた戻ってきた。

●食い物
昔からいう。
「食い物の恨みは恐ろしい。」
前首相の森喜朗氏が
8月6日、衆院解散回避の説得のため首相公邸を訪れ、
「干からびたチーズ」と缶ビールしか出なかったことに怒った。
実際はフランス産高級チーズ「ミモレット」だったことを森氏はご存知なかった。
小泉首相は25日夜、自民党本部で森喜朗前首相と会食した。
今度は豪華な仕出し弁当でもてなした。
「選挙後はミモレットのある高級レストランに招待したい」と首相。
森氏も「今日はごちそうだった」と述べ、和解成立となった。

飽食の時代に、なんともいじましい話しだ。
ちょっと立派な食事を出されて、この調子だもんな。

森氏の体躯はナチスドイツのヘルマンゲーリングに似ている。
だが、美食家ではないことが、チーズの一件でわかってしまった。
料亭で懐石料理ばかり食っているので、洋食は暗いのかね。

肥満体のゲーリングの貴族趣味は子供時代の環境からきている。
美食家と、第一次世界大戦時はリヒトフォーヘン航空隊のパイロットで、
負傷したときに使用したモルヒネの影響でデブになった。
絵画への執着も大変なもので、
占領地の美術館から略奪して自分のコレクションにしてしまった。

8月25日(木曜日)

●選挙一色
文春、新潮ともにトップはやっぱり選挙。
小泉の執念と刺客。
冷や飯組の新党旗揚げ。
刺客に「くの一」が多いとことから、久しぶりに「マドンナ」の言葉が踊る。
これまで、女性の政治参加の割合が西欧と比べ低い。
話題づくりのうまい小泉流「婦人の布陣」なんだな。



目新しい女性候補の中に、素性を公表したがらないのがいる。
立候補するからには、経歴を公表すべきだろう。
自分が、周知の大物と思っているんだろうか?
なにを勘違いしているんだろうね。
もっとも、選挙公報には掲載されるのだから。
文春は、そのあたりを記事にしている。

びっくりは「なんにでも顔出す・ホリエモン」
社長と政治家の二足の草鞋を履くとは…
売名以外のなにものでもない。
「ホリエモン・ナニモン・どれほどのモン?」


「女性セブン」は、女性誌にしては珍しく、
文春、新潮と同じ日に広告掲載し、
記事も硬派なものが多かった、が
今週は普通の女性誌になってしまった。
芸能ネタばかりで、「選挙」の「セ」の字もない。
今までは「仮の姿」、これが本来の姿なのかも知れないね。

●60年前:昭和20年8月25日

☆大東塾のメンバー14人が割腹自殺。
代々木公園の西よりの一角、戦前の代々木練兵場、で、
大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生13名の若者らが割腹自殺をとげた。

大東塾(だいとうじゅく)は、
昭和14年、影山正治を中心として、前田虎雄、長谷川幸男らによって結成された
日本の政治団体。伝統右翼に分類される。

☆集団自殺
昭和20年8月の終戦時に軍・民あるいは内・外地を問わず自決殉難した人々の数は
527名といわれている。
このうち、内地における民間人の大きな集団自決事件が三つあった。
その一つは8月22日東京愛宕山における「尊攘義軍」十烈士の手榴弾によるもので、
これは終戦前から徹底抗戦を叫んで同所にたて籠っていたものが、力つきて悲劇的最後をとげた。
その第二は八月二十三日東京皇居前広場の一角で「明朗会」の十二烈士女(一名女性)が
拳銃、短刀、カミソリ、服毒等によって自決。
その第三が大東塾十四烈士の割腹自決。

☆ソ連軍、樺太大泊へ進駐。
旧日本領に対し露骨な進駐を行っている。

8月24日(水曜日)
●撤去

全焼したアンテナショップ「結」の残骸の撤去が始まっていた。
本年4月に落成した新庁舎とは目と鼻の先。
幸い、飛び火することもなかった。
「新しい村・結」がオープンするまでは、
ここで地元産野菜の販売を行っていた。
その後、オープンスペースとして、
町民の手芸作品を展示したり、レンタ・サイクルなどを行っていた。

「結」の前で夜遅くまで遊んでいる連中がいるらしい。
出火の原因は彼らの花火と見られている。
ガラスを割って店内に投げ込んだ…
もののはずみ、では片付けられない悪意に満ちた行為である。

●襲撃
先日はライオンに襲われ婦人が死亡。
今度は強盗に襲われ男性が負傷。
ケニアのサファリツアーでのできごと。
はるばるアフリカくんだりまで出掛けてこの災難。
家で猫と「だっこちゃん」でも相手にしていればよかったものを。
※「だっこちゃん」とは、昭和30年代に大流行した、くろんぼのビニール人形のことね。
腕に巻きつけて歩くのが特徴。タカラの製品だったか。


●60年前:昭和20年8月24日
☆反乱
陸軍予科士官学校生67人がNHK鳩ヶ谷送信所を占拠。
蹶起放送をしようとしたが、送信所所員が送電を切り放送されず 。

松江市で、徹底抗戦を掲げる皇国義勇軍48人が蜂起。
島根県庁、新聞社、放送局、発電所を襲撃し、県庁は焼失。直ちに鎮圧される。

☆死亡
八高線・多摩川鉄橋で列車が正面衝突。復員兵ら105人死亡
浮島丸事件。朝鮮半島出身者4千人を釜山へ送還中の浮島丸が舞鶴港で爆沈。死者550人

☆狡猾
ソ連軍平壌進駐。
※朝鮮動乱の伏線となる軍事行動だね。

8月23日(火曜日)
●ブルーベリー
「子の子」の保育園で「ブルーベリー」摘み取り体験があった。

会場はわが家から2分。
保育園に送り届けるるのも無駄なので、許可をとって「子の子」は現地集合。
家人も家のブルーベリーだけでなく100g100円で、ここから購入している。
「子の子」も家人と共に摘んでいるので、体験といっても、新鮮味はないだろうな。
ここのいいところは、摘みながら食べてもOK。
小生、写真を撮りながら、かなりつまんだ。
パソコンをやる人には、目に効くのだそうだ。

●全焼
夕方、アンテナショップ「結」の前を通って、びっくらこいた。
なんと、店舗が消失していた。
建ってまだ、5年くらいだったか・
鉄筋を残して丸焼けである。
おかしなことに、周囲の木々は、葉もこげていない。
店舗内が蒸し焼きになったのかも。

近所の人に聞いたら、昨夜零時頃だという。
その時刻には起きていたが、サイレンも聞こえなかった。
原因は究明中であるという。

●60年前:昭和20年8月23日
☆自殺者続々
皇居わきの祝橋交差点にて明朗会のメンバー12人が切腹自殺。
※この「明朗会」つ〜のは、どんな団体なのだろうか?
 調べてみたがわからなかった。
 老人会が敗戦の前途を悲観して集団自殺を図ったのか。
 それにしても、「切腹」とは。介錯なしでは苦しかったろうな。
 明日以降も軍人の自殺が後を絶たない。

☆ライフライン復活
電力制限解除。
※めちゃくちゃ破壊されたはずの帝都だが、
 昨日の「マッカーサー…」のドキュメンタリーでは、
 廃墟となった街中を、都電が走っております。
 その隣りは、大八車を牛に取り付けた乗物も。
※灯火管制が敷かれていた帝都で、電気が通っても、肝心の家がない。
 攻撃を受けなかった山の手あたりが、復興の恩恵を受けたのかな?

☆軍需工場の様変わり
中島飛行機、富士産業に改称。
数々の軍用機を作っていた中島飛行機も戦争が終わってしまっては
作るものがなくなってしまう。
社名を変えて、鍋・釜のような生活必需品を作ったのだろうか?
後に、富士重工となり、スバルなどの名車を送り出す。

☆大和撫子
「進駐軍を迎える国民の心得」を諭告。外国軍に対する女子の自覚などを指示
※ゲリラに襲われるかと戦々恐々だった進駐軍だったが、
 戦場での猛々しさと打って変わった従順な日本人に拍子抜けしたそうだ。
 「婦女子の自覚」を指示したところで、生活苦(ばかりではなかったが)から
 身を売る、いわゆる「パンパン」が出没する。
 大和男子は売るものがなかったもんね。
 でも、モ〜ホの米兵つ〜のも、皆無てなことはないよな。
※ところで、むかしから「パンパンガール」と何の疑問もなく使っていた言葉だが、
 はて、これは何から来ているのか、と思った。

お答え

大正年間に旧日本海軍が占領した南方の島で言葉が通じない兵士が
やしの木下で手をパンパン叩くと、とある先住部族の女性が現れ、
物品と交換に体を自由に出来た事が語源で、
それをアメリカ軍上陸と共に持ち込んだのが定着したと言われている。
ふ〜〜〜ん
ほとんどは米兵を相手にした。
単なる街娼と区別する為に洋娼と呼ばれる

8月22日(月曜日)
●仏製ドキュメンタリー
昨夜、NHKBSで「マッカーサーが見た日本の降伏」という
ドキュメンタリー番組を放映した。

わが家のビデオデッキにはBSチューナーが内蔵されていないが、
テレビの画像を外部端子から取り込めることができる、はずだった。
昔使っていたデッキもBS録画ができたらしいのだが、
一度も試したことはなかった。
結構、いい番組を撮り逃がしていた。
昨晩は、何としてでも録画をしたいと、取説を仔細に読んだ。

昔は、デッキのボタンをコチョコチョやって切り換えたらしいが、
新しいものは多機能リモコンで設定する。
このリモコン、とにかくボタンが多く、1つで複数の役割を持たされているものもある。
テレビ画面に設定が表示される。
2〜3度やって失敗。
パソコンのほうがよっぽど簡単だ。

昨夜は「ミズリー号の降伏調印」のあと「アウシュビッツ裁判」を10分後に放映する。
このためにテープを購入しておいた。
しかし、BSを連続して録画予約できるのかどうか??であった。

仕方なく、録画しながらモニターし、終わった時点でGコードから再び予約するという、
なんとも情けない方法となってしまった。

SONYのビデオデッキのコピーを書いていた頃、昔やね〜、
最新機能に精通していたものだが、
こうも音痴になってしまうとは…

ともかく、頭は失敗した。
なぜか、民放の「伊藤美咲とチェ・ジウ」の対談が録画されていた。
いまを代表する美女2人だから、まっ、いいか。

「マッカーサー…」は、
ミズリー号に乗船した取材班が世紀の映像を間近で撮影していた。
もちろん初めて見る映像だ。
マッカーサー元帥以下、連合軍の将星たちが全員集合。
日本は重光外相以下軍人数名。

教科書などでおなじみのシーンも映し出さされたが、
最後に、各国代表がサインをする。
ある国の将官が位置を間違った。
そのため、1国ずつずれこんでしまい、
最後のニュージーランドは欄外にサインすることになってしまった。
マッカーサー元帥は途中で気がついたらしいのだが、
無視して式典を継続した。
で、その説明を日本側にすると、
重光外相は、「これでは枢密院を通らない」とNGを出した。
マッカーサー元帥は、調印式が終わったので、
そのあとを引き継いだ、サザーランド将軍だっかた、が
サインの位置の修正を行う、ということをやっていた。

フィルムは、そのときの状態を克明に映していた。
外務省から参加した岡崎氏が、インクで汚れた指を
調印式のテーブルを覆っていたビロードで、チョイチョイと拭いたことまで
わかってしまったよ。

この写真は、ミズリー号の調印式が行われた9月2日にご紹介。

●60年前:昭和20年8月22日
☆悲劇続発
・樺太引き揚げ船泰東丸、国籍不明の潜水艦の雷撃で沈没。667人死亡。
・小笠原丸、第2新興丸も雷撃を受けて1041人が死亡する。
・肥薩線の真幸トンネルで列車が故障停止し煤煙による窒息を避けようとして線路に降りた
 復員中の軍人等49人がバックした列車にひかれ死亡。
・尊攘同志会のメンバー10人が東京愛宕山山頂で手榴弾自決。

・樺太に於ける日ソ両軍停戦協定成立。

8月21日(日曜日)
●60年前:昭和20年8月21日
☆天気予報復活
戦時中、日本の天候は敵に知られてはまずい情報だった。
これをもとに、攻撃、爆撃されてはまずいからね。
ために、新聞、放送では天気予報は禁止されていた。
60年前のきょう、天気予報の放送が4年ぶりに復活した。
当時は民放がなく、NHKだけだったが、
国民はこれを聞いても、行楽に出かける気にもならなかったろうね。

●夏の終わり
昨夜は、東武動物公園の花火大会と「町民祭り」が開催された。
花火は、いつも家の裏で見ているのだが、
「祭り」見物のため7時頃、自転車で「新しい村」を通過する。
花火打ち上げのため、笠原小学校脇の道は通行禁止。
図書館方向から大回りして会場へ行く。
新しい村の芝生広場は花火見物の客でいっぱい。
7時半から8時までの短い時間だが、かくも集まるものなのね。

駅前からまっすぐに延びる道が、祭りの会場だ。
といっても、実際は100mに満たない場所なので、大いに混雑する。
昨夜は、流し踊り。今夕、神輿巡行。
各地区から踊り好きな面々が、お揃いの浴衣、コスチュームで参加するし飛び込みもOK。
踊り手は、ほとんどが年配者だ。
それにしても、皆さんお元気、踊り好き。
来賓席には町長もスタッフ用のTシャツを着用して見物していた。
祭りに欠かせない夜店も出て、子供たちも大はしゃぎ。

「子の子」は結構祭り好きだ。
阿波踊りの飛び込み参加の列に加わり、踊れはしないのだが、行進していた。
ビニールの大きなくわがたを買い、腕につけて
人ごみの中、家人に手を引かれていた。
本当は実の親と祭見物ができれば
彼にとってどんなに幸せなことかと思うが、これは彼の運命。
とんでもないカップルのところに生まれてきた不幸だが、仕方がない。
母親に虐待されなかっただけでもよかった。
引取りのタイミングが遅れていたらどうなっていたかわからない。
男と女、犬猫みたいに性急にくっついては、いかんですたい。
相手の家庭環境を見れば、どんな育てられ方をしたかわかろうというもの。

ジュースを飲んで、おもちゃを買ってもらい、イカの姿焼きを食べて
「子の子」結構満足したようだった。

この祭りは季節の終わりの合図だ。
昼間は相変わらず暑いが、日が短くなった。

昨夕、裏の雑草を燃やしたが
6時半には夕暮である。
生乾きのため石油をかけても途中で火が消えた。
本夕も再チャレンジね。

8月20日(土曜日)
●60年前:昭和20年8月20日

☆灯火管制廃止。
帝都がB29の猛攻にさらされていたとき、
上空から町の灯りが見えないように
電燈を布で覆い灯りを畳の一部にしか照らさないようにして不安な夜をしのいだ。
夫を戦地に送り出し、乳飲み子を抱えた主婦の心はいかばかりであったか。

灯火管制を行ったとはいえ、
敵は焼夷弾の絨毯爆撃だから、狙われた都市は火の海になる。
にっくきは、本土爆撃を指揮していたカーチス・ルメイである。

敗戦から5日後、夜の明かりを灯してもよいことになった。

戦後の名曲「長崎の鐘」3番

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

この情景は、月光に映し出されたマリア像である。
原爆でやられて市街は焼け野原。
かろうじて倒壊をまぬがれた家の柱にかかったマリア像が
月の光に照らされて、冷酷な現実を慈悲のまなざしで見ている。

灯火管制でもいい、「生」があれば…

作詞はサトウ・ハチロー。
「小さい秋」もそうだが、あの無骨な元不良少年から
かくも美しい詩が生まれるものなんだね〜

☆甘粕正彦、新京で自殺

宮城県仙台市北三番町出身。
警察官の家に生まれる。陸士卒業後、憲兵に転科し、憲兵大尉となる。
彼は、無政府主義者大杉栄と鈴木野枝を殺害したことで知られる元憲兵大尉。
甘粕事件は、憲兵や陸軍の責任は問われず、甘粕の単独犯行として処理され、
禁錮10年の刑に処せられる。
服役の後、予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学する。
フランスでは画家の藤田嗣治等と交流があった模様。
その後、溥儀の護衛を行うなど,満州事変に関する様々な謀略に荷担し、
協和会中央本部総務部長を経て満映理事長となる。
敗戦後、新京で保護監視下におかれる、
8月20日早朝、新京の満州映画協会理事長室で青酸カリを飲み自殺。
ちなみに敗戦後、甘粕の自殺を防ぐ為、部屋の外で見張りをしていたのは
赤川次郎氏の父、当時、映画科学研究所主事であった赤川孝一氏。
※映画『ラストエンペラー』では坂本龍一が好演した。
辞世の句
「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」

☆濡れ手であわ
「泡」じゃないよ「粟」だよ。

大戦末期、死んだも同然の日本に突然襲いかかったスターリンのソ連軍。
捕虜になった日本人には過酷な労働が待っていた。
もっとも、日本も韓国で同じようなことをやってきているので因果応報か。

樺太の真岡で、上陸したソ連軍と日本軍が戦闘開始
ソ連軍新京・奉天・ハルビン・吉林を占領。
ソ連のスターリン書記長、日本人捕虜の労働使役を指令。

ソ連はナチスの強制労働の手法を知っているからね。
これを日本人に当てはめたのかな?

シベリア抑留は、第二次世界大戦末期に行なわれたソビエト連邦の満州への侵入によって生じた
日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった植民地出身者、朝鮮人を含む)が、
長期間主にシベリアその他に強制抑留されたことを指す。
「7日間」の戦闘において満州や南樺太などで捕虜となった旧日本軍将兵や在満州民間人など、
約65万人がシベリアに抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。
抑留された捕虜の数については一説には200万人以上ともいわれている。
日本人はラーゲリと呼ばれた強制収容所で生活して、
酷寒の中で、過酷な労働、貧しい食事に耐えながら故国日本に帰る日を待ちわびていた。

作曲家吉田正も抑留生活体験者で、その経験をもとに「異国の丘」を作曲。


8月19日(金曜日)
●政敵
抵抗勢力、造反議員…
自分の方針に従わない仲間を敵対視する言葉を使い
マスコミを煽動して追い落とす。
プロパガンダの腕は、ナチスの宣伝大臣ゲッペルス級である。

ヒトラーは、かつての盟友であり
彼を外敵の暴力から守った突撃隊隊長「エルンスト・レーム」と突撃隊を
ヒトラーにたて突く邪魔者視して、「長いナイフの夜」で殺害する。
それに代わりヒムラーの親衛隊がヒトラーの警護に当たる。
黒い制服の彼らは、やがて総統に忠実な戦闘集団が生まれ国防軍と対立。
さらに強制収容所警護など「汚い」ことに手を染める。
でも、ヒトラーの息のかかったエリート部隊だった。

「長いナイフの夜」は、あの、ルキノ・ビスコンティの映画
「地獄に堕ちた勇者ども」で描写されている。
ここにも、「愛の嵐」のダーク・ボガード、シャーロット・ランブリングが出演。
常連、妖しい魅力の「ヘルムート・バーガー」もね。
もっとも、「地獄…」は1969年、「愛の…」は1973年製作。
「愛の…」の女流監督リリアーナ・カヴァーニは、ビスコンティを崇拝していたから、
当然、キャスティングも似てしまったのだ。

長いナイフの夜事件(1934年6月30日〜7月2日)
1934年6月30日ミュンヘン郊外のバート・ヴィース・ゼーの温泉で、
SS部隊とヒトラーが自ら拳銃を手に、宿泊していたレームらSA幹部を逮捕。
レームには自決を求めるが、応じないためシュタデルハイム収容所で
テオドール・アイケらSSにより翌日射殺される。
1934年6月30日から7月2日のいわゆる「長いナイフの夜」で
レームを始めSAの幹部がSS隊員によって逮捕拘禁、処刑されていった。
粛正対象はSA幹部のみならず、前首相シュライヒャー夫妻、
党内左派のグレゴール・シュトラッサー、ミュンヘン一揆の時の州総督カールまでも殺害された。
副首相パーペンは危ういところを助命された。
正式には77名が殺害と公表されたものの、実際は200名を越すといわれる。
国防相ブロンベルクは、身内から被害者(シュライヒャー、ブレドー(前官房長)が出たものの、
粛正を賞賛、ヒトラーは身内を切り捨てたことで国防軍の支持も獲得し、
内外の敵を一掃したのである。これらの一連の行動は、「国家の正当防衛」とされたのである。

当時、ヒトラーもスターリンも政敵は殺害して消滅させた。
現代は、「刺客」を送り込んで、合法的に政治生命を「刺し殺す」。
手法は異なるが、精神は類似する。
国民新党、新党大地など新興勢力が生まれるが、

潰すことは小泉にとって「赤子の手をひねる」より簡単か。

●アウシュビッツ
NHKでシリーズ放映中のドキュメンタリー。
19日は第3夜。「悪魔の医師・メンゲレ」と「堕落した親衛隊員」。
2005年英国制作の作品。
今夜は2回連続放映で完結する。
このジャンルは、NHKの独壇場だね。

もちろん、Gコードで初回から録画しているが、タイマーが30秒程進んでいるため
前の天気予報の一部まで録画されてしまうのが、残念だ。
電波時計で、デッキの時間を再調整する必要がある。

強制収容所という極限の状態で、死んでゆくのはユダヤ人だけではない。
ポーランドの政治犯、ソ連の捕虜なども、
過酷な労働に従事させられたあと、衰弱して死亡する。

1942年1月、ヴァンゼー会議を開催し、「ユダヤ人の最終的解決」を決定。
「最終的解決」とはユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を意味する。
ヴァンゼー会議以前、ナチスによるユダヤ人への弾圧は
主にユダヤ人を「隔離」することだった。
具体的には、国外追放、ゲットーと呼ばれるユダヤ人隔離地区へ強制移住。
ヴァンゼー会議以後、ユダヤ人弾圧は隔離から本格的な抹殺へと変わる。
処刑方法も、それまでは銃殺や絞首刑によるものだったが、
効率が悪く、銃殺を担当するコマンド部の能力も限界に達し、
ヴァンゼー会議以降、毒ガスによる効率的な大量虐殺が考案、実行され始める。
毒ガスによる殺害は、最初のうち車の排気ガスを使用して行われたが、
後に殺虫剤として使われていたチクロンBが、最も効力を持っているとして使われ始る。

強制収容所には2種類あって、ユダヤ人の絶滅を究極の目的とする“絶滅収容所”と、
彼らの労働力を無償で利用しようとする“強制労働収容所”とがあった。
アウシュヴィッツは、その両方の機能を兼ね備えた巨大複合収容所だった。

映画、「戦場のピアニスト」はゲットー、
「ライフ・イズ・ビューティフル」は強制労働収容所。
これは、真実泣ける。
「シンドラーのリスト」はポーランドのプワシュフ収容所。
内部にさまざまな工場をもつ強制労働収容所だが、
虐殺は日常茶飯事のように行われていた。

ダーク・ボガードとシャーロット・ランブリングの名作「愛の嵐」は、
ゲットー時代の親衛隊隊員とユダヤ人女性の禁断の愛を描いている。
小市民的なダーク・ボガードだが、親衛隊の制服を身にまとうと
別人のようになってしまう。
これが、恐いところだ。
原題はナイトポーター。
敗戦後を生き延びた元親衛隊隊員は、ウィーンの2流ホテルの夜間フロントをしながら
ひっそりと暮らしている。
そこへ、彼の退廃的な愛の相手、20年前のユダヤ人美少女が指揮者の妻として
現れたことから、彼は破滅に突き進んでゆく。
すさまじい、いい映画だった。

ドキュメンタリー「アウシュビッツ」は、
再現ドラマと当時のニュース映像で構成されている。
英国制作だが、ハリウッドの戦争映画と異なり、ナチスはドイツ語を喋る。
当たり前のことだが、臨場感があるし、
ゲシュタポ長官ヒムラーなどはそっくりさんが演じている。
ヴァンゼー会議に出席したハイドリヒもよ〜似ていた。

西欧ではユダヤ人に対する偏見は大昔からある。
が、ナチスはドイツ人らしい律儀さで、人間を物質として扱い
粗大ごみを処理するように殺害した。
強制収容所を管理する親衛隊の隊員も、
焼却所の従業員のように良心の呵責もなく淡々と仕事に従事していた。
狂気の時代は、人間の理性をも麻痺させてしまうのだ。

8月18日(木曜日)

●水の匂い
「子の子」を後ろに乗せて保育園の送迎…
日課になってだいぶ月日が経過した。
実の母親からは何の連絡もない。
離婚が成立してもいないのに、新しい男にうつつを抜かしているのだろう。
この女、35歳になるというのに母性のかけらもないらしい。

新しい村の「ハーブ園」を横切り、水田や池、釣り堀を見ながら走る。
それから住宅地を抜け、踏み切りは待たされるので地下道経由で保育園。
コースも決まった。

寒い時期はわからなかったが、
夏になって、住宅密集地とわが家の界隈では空気の匂いが違うことに気づいた。

姫宮落川には、水は汚れているがコウホネが自生している。
笠原小学校あたりを走ると、湿ったような、川藻のような匂いになる。
東武動物公園の釣り堀付近は、池独特のにおいだ。
江戸川のように大きくて流れの早い川にはない、よどんだ水のにおいだ。
コケや水藻なのだろうね。
これが不思議に気分を落ち着かせる。

鏡のような水面に映りこむ周囲の樹々と風のそよぎ。
木陰では少年たちが釣り糸を垂れている。
得がたい環境ではある。

●60年前
昭和20年8月18日
☆満洲帝国崩壊
1932年3月1日、満州国の建国が宣言された関東軍の傀儡政権。
1934年3月1日、溥儀が皇帝として即位し帝制に移行。
1945年8月17日、国務院は満州帝国の解体を決定、翌18日には溥儀が
大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満州帝国は建国より僅か13年で消滅した。
なお溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する直前に、
ソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕された。
※映画「ラストエンペラー」に詳しい。


☆特殊慰安施設協会設立計画
内務省が地方長官に占領軍向けの性的慰安施設の設置を指令。
※敗戦から3日しかたっていないというのに、何と手回しのいいことか。
米軍が進駐して日本の婦女子を犯しまくるのではないか、という懸念から、
専門に彼らの相手をする女性と、施設を作れ…というのだよ。
いわゆる「性の防波堤」である。
このような迅速な対応を行う、ということは、
日本の兵隊が占領国の女性を強姦してきたという証左だ。
「自分たちがやってきたから、相手もやるだろう」
そこで、「すぐやる課」のような対応になったんだろな。

日本軍は、風紀の乱れを防ぐために、兵隊とともに特殊慰安所という売春施設も移動させた。
前線に商売女が待っているのであるよ。
当時、日本領だった韓国からもこの商売に強制的に従事させられた女性がいる。
「特殊慰安婦」だが、今も賠償を巡って社会問題になっている。

性病を防ぐために「突撃一番」と呼ばれる衛生サック(コンドーム)もあった。
飛行機、軍用車のタイヤを始めゴムは
軍事製品に優先的にまわさなくてはいけない、というのに
こんなことで、よかったんかね?
この施設は1946年にルーズベルト大統領夫人エリナ・ルーズベルトの
反対と性病の蔓延を理由として廃止された。

☆ソ連軍占守(しゅむしゅ)島上陸
17日深夜、勧告等は一切無く陸上砲台・艦艇からの支援射撃を背景に
ソ連軍部隊が強襲上陸を開始した。
そして21日の停戦までソ連軍と帝国陸軍第91師団との間で激烈な戦いが繰り広げられた
(途中、日本側から停戦のための白旗を掲げた軍使隊が派遣されるがソ連軍はこれを射殺した)。
この闘いにおけるソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している
(日本側資料では日本側死傷者500名以上、ソ連側死傷者約3,000名、
ソ連側資料では日本側約1,000名、ソ連側死傷者約1,500名)。
生存した日本兵は武装解除の後シベリアへ送られ、抑留された。

☆桜花

海軍空技廠が昭和19年に開発した火薬ロケット推進方式の特攻機で、
いわゆる爆弾に操縦席と翼を付けた人間爆弾。
敵艦船の一撃轟沈を目的として製作された必殺必死の特攻兵器。
敵艦船付近まで母機の下部に吊し、目標近くで母機から切り離され、
滑空とロケット推進により敵艦船に人間もろとも突入するという飛行機。
頭部の爆弾は800キロで命中すれば一撃で艦船を轟沈させる威力があったが、
母機(一式陸攻、銀河)もろとも目標地点以前で撃墜される事が多く、戦果はあまりあがらなかった。
米軍からはBAKA BOMBと呼ばれ、終戦時までに750機が製造された。

桜花発案者といわれる大月正一中尉、神ノ池基地を飛び立ち消息を断つ。

8月17日(水曜日)

●新涼
新涼や尾にも塩ふる焼肴 鈴木真砂女

読売コラム。長谷川櫂氏の好筆。
今朝は、銀座1丁目の「卯波」が登場。
懐かしいが、昔の面影はない。
この写真のように、若い女の子が通るような横丁じゃなかった。

「焼魚」ではなく「焼肴」というのが小料理屋らしくていい。
あの頃は、この店の向かいの「ともえ」が私の母港であった。
白い割烹着の「卯波」女将が、隣の魚屋で買い物をする姿をときおり見かけた。
若い頃は、すごい情熱家だったが、その面影はなかった。

●蝉時雨
藤沢周平の小説じゃないよ。
新しい村の芝生広場の向こうは雑木林である。
埼玉県指定「みどりのトラスト保全5号地・山崎山の雑木林」だ。
県内にいくつかある保全地の中では、一番小さいスペースではないか?
昔は、草加のボーイスカウトの野営地で、
夏場には少年たちがキャンプをやっていた。
いつの間にか、彼らは追いやられ、町民の憩の場になった。
頻繁に雑草が刈り込まれ、歩道ができ、
よそいきの顔になってしまった。

夏も盛りを過ぎ、この雑木林も蝉時雨だ。
油蝉が短い命を燃やしている。

この大合唱を聞くたびに、小学生の夏休みを思い出す。
いつも、私一人、群馬県の母親の実家に預けられていた。
家の前には畑があり、その向こうの家と、
左隣の家の大きな木で、蝉がにぎやかだった。

田舎には母の姉の娘、弟の子(いとこだね)がいた。
みな同い年だったので、涼しい朝に宿題をやり
午後は、「昼寝」…なんてことはなかった。
麦藁帽子をかぶって、近くの灌漑用水へ。
利根川も近いのだが、子供にはあまりにも大きく
危険すぎるので、用水が遊び場だったのだ。

確か「七間堀(しちけんぼり)」へ「水浴び」に出かける。
近所の子供たちも来ている。
社交場である。
水門があり、そのあたりで飛び込んだりするのだが、
事故が起こることもあったらしい。
「水浴び」に疲れると、水門の向こうの小さな川で魚取りである。
いとこの「まーちゃん」と、手ぬぐいの端を持ち、川を探る。
クチボソや川エビ、ドジョウが取れるのだ。

昭和27〜8年頃だったかな。
自然が遊び相手だった。
井上陽水の「少年時代」ですね。

●草いきれ
「臭い布(きれ)」じゃないよ。
夏、強い陽射しのためにできる草原の熱気、のこと。

ここは、新しい村の「ほっつけ」。
生い茂る夏草の間で稲が元気に育っている。
サングラスをかけなければ目が痛くなるような夏の日だ。
小さな川をはさんで、小学校と図書館があるのだが、
この風景を見る限りでは、どこにでもある田舎の真昼だね。
バッタが跳ね、水辺では
姿は見えないが、ガマガエルが牛のような鳴き声をしていた。

●60年前
昭和0年8月17日
☆東久邇宮稔彦内閣成立。
8月15日に総辞職した鈴木貫太郎内閣に代わり、初の皇族首班内閣・東久邇宮内閣が成立。
この内閣の任務は旧体制の維持であり、
「一億総懺悔」を唱えて戦争責任を一般国民に転嫁しようとした。
ところが、GHQは特高警察や治安維持法の撤廃を勧告。
皇族内閣はこれを受け入れることができず、
10月5日総辞職する、短命内閣。
※天皇の苦悩も理解せず、自分たちの特権を守ろうとした虫のいい総理大臣だったな。

8月16日(火曜日)
●へび〜〜!
夕方のジョンの散歩。
久しぶりに新しく開通したレジーナ脇の道を行く。
枕木を利用した小さな橋を渡って数歩歩く。
おもわず、止まってしまった。
フェンス脇に、大きな蛇が横たわっていた。
軽く1m以上もある青大将だった。
凝視した。生きてはいなかった。
顔のまわりをアリが行き来していた。
腹がふくらんでいた。小鳥を食べたのかな。
しかし、誰が殺したのかね。

こんなに大きな蛇は、初めてみましたよ。
東武動物公園の「へび小屋」から逃げてきたのかと思った。
あんまり気分のいいもんじゃありませんね。
当分、この道は避けるべし!

●じし〜〜ん!
午前11時46分ごろ、宮城県沖を震源とする強い地震発生。
まるで、気がつかなかった。
ちょうど、その頃、所用で春日部に向けて車に乗っていた。
2時近く帰宅して、そのことを聞かされた。

比較的近い加須市では民家倒壊。
人工的なビル破壊のように、ものの見事にぺしゃんこになっていた。
死者が出なかったのは幸いだった。

宮城震源で埼玉が大打撃。
千葉、栃木、茨城震源でも大揺れ。
あ〜こわ。

宮城は昔、大地震があったので、それを経験した人たちは
日頃の備えに気を使っているようだが、
話しを聞いているだけの若い世代の家庭はどうだったんだろうね?

●60年前
☆大西瀧次郎海軍中将自殺
大西軍令部次長は日本の敗戦を見とどけた16日未明、
渋谷区南平台の軍令部次長官舎において軍刀で割腹し自決。
「特攻隊の英霊に白す」で始まる遺書の中で、
特攻隊として死んでいった英霊に深く感謝し、その遺族に詫びた。
また、自決に際しては敢えて介錯を付けず、特攻隊の英霊に詫びるために
夜半から未明にかけて苦しんで死んだという。享年54。

大西は、いわゆる神風特攻隊の編成を行なったことにより
「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれる。
しかし、当初大西は「特攻は統率の外道である」とし、
特攻隊の編成には反対の立場をとっていた
が、1944年7月、サイパンが陥落すると日本の絶対国防圏は崩壊の危機に瀕し、
軍令部次長という立場上、特攻隊を組織せざるを得ない状況となった。
それゆえの悲劇であった。

☆ソ連とアメリカ
日本が敗戦した瞬間から、米ソ冷戦の下地が出来上がりつつあった。
16日、スターリン、ソ連軍による北海道北部占領を提案。
即座に、 トルーマン米大統領は「日本は分割統治せず」との声明を発表した。

米国は共産主義が支配する世界を極度に警戒していた。
仮に、北海道がソ連領になっていたら、今頃どうなっていたか?

昭和25年に朝鮮動乱勃発。
北はソ連、南はアメリカがバックアップして戦争を展開。
朝鮮が日本から独立したのもつかの間、南北に分断されたまま現在に至っている。
ベトナム戦争もソ連とアメリカの代理戦争。
こうして、東西ベルリンの壁が崩壊するまで、冷戦構造は続いた。

8月15日(月曜日)

●原爆投下前・後
ワシントンの有力軍事分析機関「グローバル・セキュリティー」は、
広島への原爆投下の直前と直後に米陸軍機が撮影した広島城周辺の空撮写真を入手し、
インターネット上(http://www.globalsecurity.org)で公開した。
原爆投下の写真->Click
原爆投下の写真->Click

当時の米陸軍航空隊が投下直前の1945年7月25日と、
投下5日後の同年8月11日に爆心地周辺を撮影したもの。

比較すると、投下後は、堀の中の左下角に位置する天守閣など、
敷地内の建造物や木々が石垣部分を残して消え、外堀を取り囲
んでいた軍司令部の施設もなくなった様子が確認できる。

当時の記録では、堀をハスの葉が覆っていたが、原爆ですべて焼けたとされ、
7月25日の写真には、葉のような細かな模様が堀を覆っている様子が確認できる。

現在の広島城


●意思疎通
「ウインドトーカーズ」という映画があった。
ジョン・ウー監督と二コラス・ケイジ。
太平洋戦争中、米軍の暗号は日本軍にことごとく解読されていた。
乱数表に代わる手段としてインデアン、ナバホ族だったか、の言葉を用いた。
その暗号を送り、解読するインデアンが戦場(サイパン島)に送り込まれた。
最初は反目していたニコラス君とネィティブアメリカンの友情物語だ。

その昔、日本では、西南戦争だったか、
命令伝達に、敵にわからないよう難解な鹿児島弁を使ったということもあった。
なにしろ、九州と東北の人間では言葉が通じないという時代だ。

閑話休題

ドナルド・キーンさん。
御年83歳の日本文学研究者。
60年前、彼は米国の語学将校だった。
仕事は、戦死した日本兵が残した日記の翻訳。
米軍は、兵隊が記録をとることを禁じていたが、日本軍は寛容であった。
キーン氏は、庶民レベルまで日記が浸透していたことに驚く。
さすが、平安の昔から、日記文学が確立されている国の兵士だけのことはある。

彼らの残した文章から、作戦行動はわからないが、
彼らのものの考え方を掴み、米軍の戦術に生かそう、というのである。

時は、米国が真珠湾攻撃を受けた直後。
米国人は日本について何も知らないことに気づいた。
戦う相手の言葉を習得する学校を、1942年6月、コロラド州ボールダーに設立。
生徒は、ハーバード大、スタンフォード大の学生
日本で育った宣教師の子弟などで、全米から優秀な白人が集められた。

教官は日系人だった。
※ルース・ベネディクトの「菊と刀」が日本人の精神構造を知るための教材、と思っていたが、
語学は、お寒い状態だったんだ。
寮生活で、読書、会話、書き取りを1日4時間。
食事時の会話も日本語、日本映画の鑑賞、童話を読んだりもした。
日本語漬けの毎日でノイローゼになり自殺者も出たという。

彼らは12〜18ヶ月で修了し語学将校となった。

ハワイ・ホノルルの米軍「太平洋統合情報センター」では、
戦場から集められてきた文書を翻訳して、日本軍の情報を分析、
日本人の戦争に対する考え方も探った。

キーン氏は、和英辞典、漢和辞典を駆使して訳すうち、難しい字も読めるようになった。

米軍が養成した語学将校は1100人にのぼった。
日本兵の手記など数万点が翻訳された。
戦後、不要になった文書はハワイで焼却処分。
トラック50台分あったという。

多くの日本文学が戦後、英訳され海外に知られるようになった。
谷崎潤一郎、志賀直哉などの現在文学を翻訳したのは、元語学将校たちだったという。
キーン氏も、この仕事を通じて日本文化、文学の研究者となった。
そのうえ、東京都北区に住んでいる。

●731部隊
アメリカ公文書館に眠っていた731部隊に関する書簡が見つかったと、新聞報道。
発見者は、神奈川大学・常石教授。
それによると、敗戦後、731部隊が満州で行った実験データを、米軍が金で買っていた。
戦勝国だから、命令で押収できそうなものだが、なんで金を払っていたんだろうね。

731部隊とは、石井将軍麾下の「旧関東防疫給水部」。
対外的は水と伝染病の関係を調べる部隊だが、
実体は生物化学兵器の実験部隊だ。
ナチスがユダヤ人に対して細菌を植えつけて実験したように、
日本も満州で、中国人を「丸太」と称して細菌実験を行った。
敗戦後、米軍と石井中将は、取り引きを行った。
だから、彼は東京裁判にかけられることもなかった。
当時の、細菌兵器実験は米国より進んでおり、
彼らはデータが喉から手が欲しかったのだ。
新資料によって、終戦2年経過しても実験データが渡されていることがわかった。
当時、実験に参加した科学者を饗応したり謝礼金を払っていたいた様子がわかる。

731部隊は、すべて人間で実験していたわけではない。
今も昔も実験はハツカネズミ、モルモットである。
で、この小動物を提供していたのは、どのような人たちだったのか?
その答えのひとつは、県立庄和高校の生徒が調べたリポートがある。
庄和町や杉戸町の一部で、鶏を飼っていた農家が、実験用小動物の飼育を始めたのだ。
どういう経路で、この地域に白羽の矢が立ったのか、
リポートを読んだわけでなく、新聞情報からなのでわからない。
ともかく、細菌戦の基礎部分のお手伝いをしていたわけだ。

731部隊は森村誠一の「悪魔の飽食」に詳しい。

もう4〜5年も前になるだろうか。
杉戸の飲み屋で、隣に座った人が、小動物の飼育に携わっていた。
ひょんなことから、話題がそっちに向かった。
今は、大学病院などが取引先だった。
歴史を聞きたくてうずうずしたが、なんとなくためらわれ、話しはそこで終わった。

●戦没者追悼式
政府主催の全国戦没者追悼式が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、
東京・北の丸公園の日本武道館で開かれ6300人参列した。
厚生労働省によると、今年は、昨年より約200人多い5118人の遺族が参列。
参列者は高齢化が進み、10年前には1711人(26.5%)だった
戦没者の妻は191人(3.6%)にまで減少。
戦没者の親は10年前は23人(0.4%)いたが、00年から1ケタ台になり、
今年は初めて参列がなくなった。
戦没者の子どもは10年前の1983人(30.7%)から3218人(61.2%)に増え、
参列者の世代交代が進んだ。

※戦後60年、戦没者の親も息子と同じ墓に入り、初めて魂の安寧を得たということか。
敗戦記念日は丁度お盆と重なる。
日本国中、都会に住む人々が帰省し先祖や戦没者を弔う。
だから、天皇の詔勅放送とお盆が重なって、
15日が「終戦記念日」ということになっているが、
いやいや、戦艦ミズーリー号上で連合国の降伏調印文書にサインした9月2日が、
正式に「負けた日」だよとする説もある。

●ラテ面
敗戦特集番組があるのではないか、と新聞の最終面を眺めた。
ない。
期待したのはNHK。
米国外交文書館に眠る日米戦の新事実をていねいにひもとく。
こういう番組作りのうまさはNHKを置いてないもんね。
風化しつつある戦争の記憶だが、
これを美化するのではなく、
「つんぼさじき」に置かれていた国民が真実を知る、ための番組だ。

本日、NHKは「アジアの中の日本」という討論番組を長時間にわたり特集する。
戦後、日本の地位は、経済大国と言われるようになったが、
存在感は国際的に低下している。
最近は、領土問題で中国、韓国にやられっぱなし。
ロシアも北方領土では、かたくなな姿勢を崩さない。
これらの国々は、日本を軽視しながらも、金をせびることは忘れない。

先の大戦で日本民族は「ファナースティック」という認識が海外にはある。
普段は上に従順だが、いったん切れると何をしでかすかわからない、というのだ。
(最近日本で頻発する、理由なき殺人もこれに似ている。)
だから、特に、大戦中に日本に蹂躙された東南アジアの国々は警戒する。

米国は、この狂犬をうまく取り込んだ。
上手に使えば、相当効果があるからね。
いま、「忠犬ポチ小泉」が、その役割を果たしている。
政敵を容赦なく切り捨てる、彼の目と唇。
奇策を弄する選挙上手な「切れ者」だが、キレると恐い。
彼は、総理より参謀向きなのではないかね。


「平和日本」という姿勢は、海外からの圧力に言いなりになることではない。
日本政府は「羹に懲りて膾を拭く」的な対応しかできない。
だから、国民は、この暑さもくわわって「いらいら」するのだよ。

民放は、TBSの
「覚悟〜戦場ジャーナリスト橋田信介物語〜イラクに散った不屈の魂
実録ものだが、なぜ、「終戦の日スペシャルドラマ」なのか?
日本派遣軍が、「丸腰」で米国に同調したために「敗戦」する、とでもいうのか?
殉職した「橋田」さんには申し訳ないが
TBSは、ロバートキャパの言葉を借りれば「ちょっと、ぴんぼけ」。
先日、小野田少尉の番組で友情出演していた「柳葉敏郎」が、橋田さん役ね。
録画することもないか。

●敗戦
「終戦」などと口当たりのいい言葉を使っているが、
まぎれもない、大敗北なのである。
緒戦の「まぐれ勝利」に、酔いしれて実力以上の無謀な戦争を展開してしまった。
戦線は伸びきり、資源不足では、白旗を掲げるのも時間の問題であった。
それを、「精神論」で乗り切ろうとしたのだから、無謀というほかない。

一昨日、NHK教育・ETV特集は「ゼロ戦に欠陥アリ」。
(これも、しっかり録画したが。)
量産された海軍名機「ゼロ戦」だが、これも人命軽視の戦闘機だった。
被弾に弱い。
米軍は墜落したゼロ戦を徹底的に研究して、ゼロ戦キラー・ヘルキャットを投入する。
以後、カモになり消耗率もうなぎ登り。
最後は、特攻機として、多くの若い命が散っていった。

青少年を軍国思想に染めて、軍首謀部は「弾」のように消費した。
勝つ見込みのない作戦の最前線に投入した。
高級軍人は安全な場所で指揮をとる。
敗戦を知り、自決した奴は責任をとったつもりだろうが、
裁判にもかけられず、戦後をぬくぬく過ごした奴等は、恥を知っているのだろうか。

●60年前
昭和20年8月15日
☆御前会議
終戦の詔書自体は、8月14日午後4時からの閣議で決定され
(すでにこの日午前11時から始まった御前会議<これが最後の御前会議となった>)で、
天皇の「聖断」が下っていた)、午後9時30分に天皇が署名、8月14日付で発布された。

終戦の詔書

☆玉音盤録音
天皇が自ら詔書をレコードに録音し、それをラジオで国民に放送するという発想は、
情報局総裁下村宏が8月8日に天皇に直接進言したものであるといわれている。

記録によると、「天皇は、14日午後11時20分(当初の予定は午後6時頃であったが、
終戦の詔書作成が修正が40箇所を超えため、予定より大幅に遅れ、午後7時を過ぎ、
すべての閣僚の署名が終わったのは午後10時を過ぎる)、
皇居の宮内省内廷庁舎2階政務室で情報局総裁、
石渡荘太郎宮相、大橋八郎NHK会長らの立ち合いのもとで、
戸田康英侍従がテストをしたあと、録音開始、一度やり直して、
11時50分に終了した」、となっている。

玉音盤。愛宕山のNHK放送博物館に展示されている。

☆玉音盤事件
深夜、陸軍軍務局員の畑中健二少佐らが終戦阻止の為に近衛師団を動かし
皇居と東京放送局を占拠。早朝鎮圧される、近衛第1師団長森赳中将ら殺害される。
早朝、田中静一東部軍司令官自らクーデターを鎮圧し、首謀者は自殺。
※15日正午に放送予定の音盤を奪い、戦争継続をしようとする動き。
これは、録音に立ち会ったNHK局員の機転で奪取を回避できた。
早朝、陸軍横浜警備隊長・佐々木武雄大尉が終戦阻止の為に
横浜高工の学生らを率いて首相公邸・首相私邸・内大臣邸などを襲撃
☆割腹自殺

午前、阿南惟幾陸軍大臣、敗戦の責任をとり割腹自殺。
※子がいま、中国大使だね。
☆通告
午前7時21分より、NHKは正午に重大放送が行われることを放送。
☆新聞遅配
すでに終戦詔書が掲載されていた各新聞朝刊は、午後配布される。
☆玉音放送
正午には全国で送電が行われた上、「玉音放送」が行われる。
一般国民は天皇の声を聞いたのは、これがはじめてであった。
ラジオで聞く天皇の声によって、戦争の終結(敗戦)を知ったのである。
天皇の声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られる。
音質が極めて悪い上に天皇の朗読に独特の節回しがあり、
詔勅の中に難解な漢語が相当数含まれていた為に、論旨はよく解らなかったという証言が多い。

※宮城前の玉砂利に土下座して涙する人々が多かった。
なんで、あんなに大勢が宮城に集まったのだろう?
ラジオを聞いて、付近の人々が集まったのかな?

※映画「日本の一番長い日」に、14〜15日の出来事が描かれている。
今は、頭がつるつるの黒沢年男が、狂信的な畑中少佐役。いい雰囲気を出していた。
☆鈴木内閣総辞職
正午の放送をもって鈴木内閣総辞職。
☆厚木基地・小園指令の反乱
小園大佐は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信するとともに
陸軍や国民に向けて檄文のビラを用意した。
このビラは、零戦(首都圏)、月光(関東・東北)、彩雲(中部)、
銀河(北海道・中国・四国)によって各地に撒布された。
8月16日、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられたが、小園司令はこれを拒絶。
米内は三航艦司令長官:寺岡中将に小園の説得を命じた。
しかし三十分にわたる会見は決裂し、小園は後に軍法会議で「抗命罪」に問われる。
☆最後の特攻
8月15日、正午の玉音放送で無条件降伏を知った後の宇垣中将は、
自ら特攻出撃すべく山本五十六元帥から拝領の脇差を手にして飛行場に向かった。
翻意を進める幕僚に対して、宇垣中将は言いきった。
「いまだ停戦命令に接せず、多数の純忠の将士のあとを追い、
特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地はない」

大分海軍飛行場には艦上爆撃機「彗星」11機と、搭乗員22名が待っていた。
「命令は5機」とただす宇垣中将に、
隊長の中津留大尉は「全員でお供します」と答え、11機の「彗星」は沖縄へ出撃していった
戦果
三機不時着、八機進撃。
アメリカ戦略爆撃調査団による調査…テンダー水上機母艦に命中、小破。
※宇垣はいいだろうが、道連れにされた青年たちはいい迷惑。
☆関東軍
深夜、新京で関東軍総司令部会議が行われ、終戦に従うことを決定。
※ソ連軍に蹂躙されたのに、フン切れの悪い連中である。

8月14日(日曜日)
●帰還
終戦六十年スペシャル「ドラマ実録小野田少尉・遅すぎた帰還」
小野田役:中村獅童
鈴木紀夫青年:堺雅人

昨日録画しておいた。
うだる夕方、観賞。
どこかで見た顔だと思ったら、昨年のNHK大河ドラマ「新選組!」の
山南敬介ではかいか。劇中の「鈴木」青年である。
中村獅童は「捨助」で出演していた。
奇しくも、このドラマで再会したわけだ。
獅童の叔父(だったかな)、中村かつお、が父親役。
母親役の八千草薫との親子の情愛に比して、始終少し離れた立場であった。
帰国後、実生活でも、この親子はしっくりゆかず、早々に実兄のいるブラジルに移住したのだ。

☆小野田少尉帰国のきっかけを作った「鈴木紀夫」さん

1949年、市原生まれ。1969年、法政大学経済学部中退。
同年よりアジア、中近東、アフリカなどで放浪の旅を続け、1972年一時帰国。
1974年2月、フィリピン・ルバング島で小野田元少尉との接触に成功。
救出への大きなきっかけをつくり一躍有名人となる。
その後、冒険家として「雪男発見」に情熱を燃やしたが、
1986年、雪男探しに出かけたヒマラヤ・ダウラギリIV峰で遭難死した。享年38歳。

☆小野田少尉

1944年12月「残置諜者」および「遊撃指揮」の任を与えられ
フィリピンのルバング島に着任。部下とともにゲリラ戦を展開した。
終戦後もジャングルにとどまる。
74年2月、日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、彼と接触することに成功する。
鈴木は日本が敗北したことや現代の状況を説明して帰国を促し、
小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。
これにより、ほぼ30年後の1974年3月10日に救出され帰国が実現した。

小野田さんは現在83歳。帰国の翌年に日本を離れブラジルへ移住し牧場経営を成功。
その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして
『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、
『小野田自然塾』を主宰。自らのジャングルでの経験を元に逞しい日本人を育成するとして、
講演会やキャンプなどを行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている.。

●60年前
☆御前会議で、昭和天皇自ら無条件降伏、終戦を決定。
 閣議と最高戦争指導会議の連合会議であり,出席者は首相の鈴木をはじめとする全閣僚と
 参謀総長梅津,軍令部総長豊田,枢密院議長平沼,内閣書記官長迫水,
 総合計画局長官池田,陸軍省軍務局長吉積等であった(『終戦史録』696頁)。
 この御前会議は午前11時から宮中の防空室で開かれ,
 天皇は梅津,豊田,阿南らの反対論を聴取したのち,
 「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ 内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ
 軽々ニ考ヘタモノデハナイ 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ……戦争ヲ
 継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル即チモトモ子モナクナル 今停戦セハ将来発展ノ
 根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ 速ニ詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ」
 と再度聖断を下した。
 これが最後の御前会議となった。

 昭和天皇は、「このまま戦争を継続すれば、国体も国家の将来もなくなる」と。
 さらに「もとも子もなくなる」とおおせられた。
 「帰りの電車賃まで馬につぎ込んでは<もとも子もなくなる>」というように
 下々は使いますが、現人神も結構ゲスな言葉を使ったんだな。


8月14日の最後の御前会議(白川一郎画)
千葉県関宿町:鈴木貫太郎記念館所蔵
この記念館は、わが家からそんなに遠くない。早速見るべし!だね

☆4航空団所属B29爆撃機327機が日本石油秋田製油所・熊谷市街・伊勢崎市街を空襲。
☆313航空団のB29・39機、七尾、下関海峡、宮津、浜田の各港に機雷を投下。
☆P―51約100機,三重・愛知・岐阜県を攻撃。
☆B―29約100機・戦闘機約70機大阪と近畿一帯を爆撃。
☆B―29約250機高崎・熊谷・小田原を夜間爆撃。
第二次大戦最後の空襲となる。

☆熊谷空襲
昭和20年8月14日夜の「熊谷空襲」はB29による焼夷弾(しょういだん)投下で死者234人、
負傷者3千人を出し、全焼3630戸、約1万5千人の市民が焼け出される、
県下最大の被害をもたらした。市街地の70%を消失し、市役所、公会堂、地方裁判所、
郵便局、専売局、農林金庫、武州銀行、高等女学校など価値の高い建築物も失われた。

この期に及んでも、B29は日本各地を火の海にしている。
太平洋戦争では相当、アメ公の恨みを買っていた。
それに、人種偏見もあったのだろう。
「イエローモンキー」は人間以下だと…町を焼け、人間を焼き殺せ!!
指揮をとったのは「カーチス・ルメイ」だ!

米国本土では、日系移民が強制収用され、南米ペルーでは
米国の差し金でペルー政府は、数多くの日系移民を米国に送還(?)している。
第一次世界大戦前に移民し経済的に成功した人々が標的になった。
彼らは、パスポートも持たされぬまま、米国送りになり
入国審査で、密入国扱いされ、収容所という、米国の策略に引っかかった。
これまた、白人より劣るとみなされた黄色人種が、プアホワイトより金持ちなのが
しゃくにさわる、というヤンキーらしいシンプル頭の妄想の結果なのだ。

●ゆるふんJAL
福岡上空から約600個の金属片が落果した。
JAL系旅客機エンジンの一部だという。
怪我人が出たが、幸いかすり傷だという。

60年前はB29の焼夷弾にやられ、
いま、自国の航空機にやられた。
車のフロントガラスを破り、屋根をつき抜け、舗装道路にめり込むほどであったという。
専門家は、「直撃すれば死亡事故にもつながる」と指摘している。
JAL機が迷走しながら御巣鷹山に激突して20周年の式典が開催されたばかり。
整備不良という事故の教訓がまったく生かされていない。
この事故で亡くなった方々も、天上から大いに嘆いているだろう。

管制ミスをはじめ飛行機事故など、なぜ日本航空に頻発するんだろうね。
社長が辞めたからといいって問題が解決するわけがないだろう。
空も陸も運輸関係はたるみきっておりますな。

整備の人材と予算を削りすぎているんじゃないの?
でなければ、不祥事が起きても他人事。
企業全体が弛緩してるんだな。

8月13日(土曜日)
●刺客
「飛脚」じゃないよ。

小泉自民党が、郵政民営化に反対する元議員を叩き潰すために
強力な候補者を小選挙区にあてがう。
マスコミは「刺客」といって騒ぎ立てている。

少し前、「ほりえもん」がニッポン放送経由でフジテレビに触手を動かしたとき、
「ポイゾンピル」とか「ホワイトナイト」など聞きなれない言葉が飛び交い
株の攻防戦が繰り広げられた。
こういう駆け引きもあるんだ、と外野はことの成り行きを楽しみながら観戦した。
結局、フジテレビが大金を払って「ほりえもん」側が取得した株を
買い戻してシャンシャンシャン。
フジとライブドアが業務提携を行う、と表面上はなっているが、
最近は、宿敵「楽天」がフジと仕事を始めている。
「ほりえもん」はフジからせしめた大金で、
金融関係を、確か、買収したよな。

楽天・三木谷は、野球のときもそうだったが、
じゃんけんの「後だし」のような動きで
「漁夫の利を占める」ことが好きなようだ。
金融出身のエリートのようだが、やることがせこいし、創造性に欠けるな。

あ、そうそう。
IT業界の若者が動くと、英語が反乱するが、
政治の世界は「刺客」だぜ。
自民党・郵政反対派は、徒党が組めないらしいが
ここで「用心棒」を雇わなくてはいけなんじゃないの?
公明党は「忍び」を放ち、
社民党は同じく「くの一」を。
共産党は「鉄砲玉」かね。

●60年前
☆昭和20年8月13日:特攻
「海軍」
神風特攻第四御楯隊:「彗星」4機:百里ヶ原発:中尉 平野享指揮官
神風特攻第七御楯隊第三次流星隊:「流星4」機:木更津発:中尉 元八郎指揮官



「陸軍」
陸軍特攻第二百一神鷲隊:五式戦3機 小川満(中尉) 他2名 犬吠埼70度100カイリに て不明
            出撃地不明
飛行第十師団神鷲隊:練習機3機 鶴岡弘(少尉)他3名 伊豆半島沖にて不明
            相模原飛行場より出撃


終戦、いや、敗戦を2日後に控え、断末魔の様相を呈していた。
特攻隊員には「負け戦」のことなどむろん知らされていない。
彼らは「国の盾」となって散華していったのだ。
「散る桜、残る桜も散る桜」
とはいえ、陸軍のように「練習機」で特攻というのではたまらない。
敵艦にたどりつくまえに行方不明では、死んでも死にきれない。
陸軍首脳部の人命軽視、ここに極まれり。

勇壮果敢な若者たちであったが、やはり、飛行機で敵艦に体当たりという
自殺戦法は恐怖である。
「雲流るる果てに」では、「苦悶」する学徒兵の姿も描写される。

靖国神社に展示される「彗星」

●増水
戦時中の食べ物「雑炊」ではないよ。
昨夜は、関東、北陸の各地に大雨洪水警報が発令された。
「空襲警報」発令でなくてよかった。
で、今朝、「子の子」を保育園に送りがてら川を見て回った。
(お盆ということで、さすがに、預けられている子供たちは少なかった)
東武動物公園前を流れる「姫宮落川」、宮代と杉戸の境界「古利根」も
茶色く濁った水を満々とたたえていた、が、思ったほどではなかった。

両方とも、普段は汚れた川なので、こういうことでもなければ浄化されない。
慶賀至極。

●雷雨
昨夕。雨雲。
今にも降りそうな気配にあわててジョンの散歩。
10分も歩かないうちにポツリときた。
回遊コースを自宅に向かう。
大粒が降ってきた。
走ってわが家に飛び込む。
散歩中の人が、お盆休暇中の隣の医院で雨宿りしていた。
雨脚はますますひどくなった。
19時前にピカッときた。
それから、すさまじい雷の嵐。
11年前、越してきたときのことを思い出した。
あのときも、経験したことのないような雷の洗礼を受けた。
閃光の瞬間轟音の連続である。
上空の異常気象現象だ。
早々にパソコンのコンセントを外しておいた。
そのうち、停電。
ブレーカーを落とす。
ローソクをともす。
リビングで小1時間、雷ショーを観賞。
蓮田方面に落雷の模様。
やがて停電は復旧。
相変わらず雷は止まない。
雨もひどい。
雷は遠ざかったが、雷鳴は止まない。
6時間以上鳴り続けていた。
そんなわけで、パソコンは使えなかった。

昨夜は東武線、武蔵野線で信号機に落雷があり
大勢の帰宅途中の人が電車に缶詰になった、と報じていた。
お盆の帰省ラッシュ。
ラジオでは、
高速道路の渋滞情報を告げている。

8月12日(金曜日)
●防戦
民主、社民の選挙スローガン
「日本を、あきらめない。」 民主党
「国民を見ずして、改革なし。」 社民党

今回の「小泉自爆」と、次々に繰り出す奇策に
「対抗政党」は防戦一方だ。

強力な対抗馬を当てるのは、海外では一般的なようだが、
地盤、看板を背負い、上部組織の手厚い保護の下、出馬する
日本のやりかたのほうが「古臭い」ように見えてくるから不思議。
これも、小泉効果なんだろう。
常に「シンプル イズ ベスト」で臨む小泉流は、
この選挙戦でも、国民にわかりやすい対立構図を示した。

郵政民営化は、「小さな政府」のために「民でできることは民で」を標榜。
そして、地方自治体に権限委譲する。
もう、「国家におんぶにだっこはよそうぜ」
「親方日の丸」でなく、「地方自立」をしよう、というのだ。
先の、「平成大合併」では、円満合併を達成した地方自治体には「お祝い金」をばらまいた。
「小さな地方自治体」を目指し、合併拒否したところには、
地方交付税の減額という「しめつけ」が、「ごほうび」。
地方自治体は合併して効率化を図れ、というのだ。

「小さな政府」を目指す小泉が、「小さな地方自治体」は認めない。
これは、私企業で言えば、
「政府」が「ホールディング・カンパニー」だな。
小さくても、傘下に睨みをきかす、という図式。

閑話休題

で、2党のスローガンだが、視線の先は「自民党」でなく「小泉」だ。
彼に、きりきり舞いさせられて、あわてふためいている姿が目に浮かぶ。
民主党の岡田さんも、生真面目だけでは、
こういう世界では生き残れない、と思うのだが。
「策士」小泉を研究したほうがいい。


東京10区に、「落下傘」で降り立った小池環境相。
立候補は、首相側からの要請ではなかったらしい。

郵政民営化法案が否決される数日前に、飯島勲首相秘書官に
「私、東京10区に出ます」と伝えていたことが11日、分かった。
(毎日新聞)
これは、一体何を意味するのか?
小泉への忠誠心なのか?
自称、織田信長の小泉に、彼女は誰の役回りをするのだろうね。

●60年前
☆昭和20年8月12日 海軍18試局地戦闘機「震電」初飛行に成功

「局地」とは、敵機を迎え撃つ、つまり「迎撃機」だ。
従って、スピードと旋回能力、重武装が要求される。
「震電」はこの条件を満たす、唯一の先尾翼迎撃機だった。
この戦闘機の存在を知ったのは、中学生の頃だ。
地元の古本屋で、日本の軍用機の図鑑を買った。
その本は3面図しかなく、初めて「震電」を見たときは
プロペラは前にあるものと思っていたので、
どんな外観をしているのか容易に想像がつかなかった。

機体の後ろにプロペラがある。
車でいえば、昔のワーゲンのような「リア・エンジン」だ。

昭和14年8月、ナチスドイツの戦闘機
メッサーシュミットMe109R高速度研究機が時速755.11kmという世界記録を樹立した。
実は、メッサーシュミットMe209V1が当時の戦闘機Me109の宣伝のため
「メッサーシュミットMe109R」として発表された、という裏話もある。

プロペラ機で達成した驚異的な速度に世界各国は驚嘆し、開発j競争に発展した。
昭和19[年6月、「震電」は海軍空技廠と九州飛行機の共同設計で開発されることになった。
そのデザインは斬新そのもの。
中央に座席のある紡錘型の胴体の後部に推進式6枚プロペラをもつ
空冷式エンジンを搭載、主翼は20度の後退角をもつ超薄型の層流翼で、
先細の機種に小さな水平安定板、尾輪つきの総垂直尾翼は左右主翼の後縁中央に。
操縦席は火薬発射による脱出装置があった。
この先尾翼(エンテ型)の飛行特性は昭和18年、モーター・グライダーによる実験で裏付されていた。
昭和20年、開発は最優先で強行された。
1号機は昭和20年7月に完成。8月12日、試験飛行に成功。
増加試作の計画も進められていたが、3日後に終戦を迎えた。

戦闘機にしては脚が鶴ののように長い。翼の下を人間が通れる。

それにしても、このユニークな機体が大空を自由に飛びまわるシーンを見たかった。
後世のイラストレーターたちが夢を実現させている。
できれば、小松崎茂画伯の作品が見たかったな〜〜〜。

プロペラのないほうが前ね

8月11日(木曜日)
●珍客
油蝉、日暮しに混じって、昨日から「つくつく法師」が鳴き始めた。
この声を聞くと、そろそろ夏も終わる、と思う。

小学校の頃は、夏休みになると母親の実家に一人で長逗留をしていた。
同い年のいとこが2人いたので、退屈することはなかった。
今は群馬県千代田町というが、利根川に面した農村部である。
対岸は埼玉県。122号で行けば、我が家から結構近い。
灌漑用水で魚取りをしたり、
夜になると「衆楽館(しゅうらっかん)」といったかな?
公民館だったのだろうか?そこで映画鑑賞会があった。
青と赤のセロファンのメガネをかけて
立体映画というものを初めて見たのは、そこだった。
また、利根川では「川施餓鬼」という夏祭りがあって、
船着場の近くに櫓を組んで「八木節」大会などが開かれた。
「道灌山」という古墳跡で写生をしているときなど、
「つくつく法師」が鳴いていた。
金町の家に帰らなくいてはいけないんだ、と思ったものだ。

午前中、裏の雑草を草刈機で刈り込んだ。
お勝手から、首尾を眺めていたら、ジャロジーに
「つくつく法師」が羽根を休めていた。
油蝉の半分以下の小さな蝉である。
しかも、色は日暮しに似ている。
この小さな体で、弱々しく夏の終焉を告げるのだ。

●遠吠え
ヘルシンキで開催されている陸上世界選手権で、末続が準決勝で6位。
決勝進出できなかった。
パリ大会で銅メダルを獲得した、彼にとってゲンのいい200m。
国内では最速スプリンターとして名が通っているが、
100mを棄権して200m1本に絞った結果がこれである。
準々決勝もやっとパスしたというのに、
「記録保持者の**をあっと言わせたい」とか
準決落ちしたときも「いい経験をした、この借りは必ず返す」などと
威勢のいいセリフは、毎度のこと。
言葉と行動がなかなか一致しないのも、末続の特徴だ。
「この借りは必ず返す」という言葉、
以前もどこぞの国際大会で負けたときも、吐いてはいませんでしたっけ?

負けん気が強いのはいいが、その言葉が「空手形」になりそうな結果ばっか。
負けたときは、もっとへりくだって、
「この経験を糧にもっと精進します」といったほうが好感が持てるぜ。
国際的な実力がばれかかっているのだから。
「大言壮語」はやめて「謙虚」にいこうよ。

●60年前
☆昭和20年8月11日
終戦詔書の草案が完成する。
さらに迫水久常内閣書記官長、安岡正篤大東亜省顧問の手を経て14日午後詔書4通が完成。

連合国、ポツダム宣言受諾の回答を日本政府に行う。
※日本国政府の反応が遅いのでせっついてきた。

8月9日に行われた「御前会議」では「ポツダム宣言受諾の可否について」
軍部と文官の間で意見は平行線をたどる。
当然、陸海軍は戦争継続。
当初、天皇は、ポツダム宣言を唯々諾々と受諾するのではなく、
1つくらい戦に勝って、交渉を有利に運びたいと思っていたが、
広島、長崎への原爆投下、和平交渉の仲介先に選んだソ連が参戦という
矢継ぎ早の動きに、「これでは国が滅ぶ」と感じて
早期受諾の道を探るようになった。
で、15日に放送されることになる「終戦詔書」の草案が完成したのだ。
もっとも、この作業は密かに先行して進められていたのだろう。

8月10日(水曜日)
●げげっ!

おはようございます。                 ららっ、カツラが落ちた!!

本人も、周りも平然としているが、内心はどうか? いっそ、このままでいけば…

以前から、噂はあったけど、
こうもモロに見せられてしまうと、
なんだか可哀想になってくる。
フジテレビ朝の顔、小倉さんのことだがね。
彼は、パソコンの黎明期に、
シャープ提供「パソコンサンデー」の司会をやっていた。
もう、20年以上も前のことだ。
その頃はふさふさしていたが、
スタジオの強いライトを長いこと頭上から浴びていては、
ああなるのも無理はない。
これは、多分昨年のハプニングではないの?
コメンテーターに、破廉恥罪で捕まった植草がいるからね。
動画に興味のあるかたは ->Click

●えげつな〜
小泉の意に従わぬ者を追い落とす。
反対派つぶし策「コスタリカ方式」
こういう方法があるんだね〜〜〜。
東京10区:小林興起(郵政反対)に小池百合子(閣僚)をぶつけた
小池は前回は比例近畿なのに、小選挙区東京10区に鞍替え。
傍目からすれば、なんでもあり、の感。
選挙民の「判官贔屓」に期待する。
小池だって、縁もゆかりもない地区から出馬だし、
いくら小泉親分の命令だとはいえ、忸怩たる思いがあるだろう。
最後は「自分の意思で決めました」と言ってるが、
当選のあかつきには恩賞があるのだろう。

●60年前
☆昭和20年8月10日
沖縄戦の敗退、ソ連の宣戦布告
広島に続き長崎に原爆を落とされた日本は、御前会議で、ついに敗北の覚悟を決めた。

45年8月9日午後11時50分から開かれた御前会議終了後、
天皇は木戸に次のように語っている。
「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。……」(『木戸幸一日記』下巻1223〜1224頁)。

10日午前2時30分、御前会議で国体護持のみを条件として
「ポツダム宣言」受諾を決定。
中立国を通じて聯合国に通知。

●宇宙より生還

米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトル飛行再開機ディスカバリーは、
米太平洋時間9日午前5時11分(日本時間同日午後9時11分)、
約2週間の飛行を終えて、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に着陸した。

宇宙ステーションでの野口さんの活躍ぶりが伝えられていただけに、
耐熱タイルの不備が目立ち、
大気圏突入が危険視されていただけに、
生きて地球の土が踏めたことはめでたい。

歌手の菅原洋一のような、素朴な雰囲気の野口さん、ごくろうさま。
よくぞ、ご無事で。

●佐々木引退

昨夜、ベイスターズの佐々木が、出身地の仙台で引退試合に登板。
ダメ巨人対横浜戦。
高校野球の頃からのライバル清原と対決し三振に打ち取る。
有終の美を飾った。

かつて「大魔神」と呼ばれた威容はなかった。
回復の思わしくない右ひざの影響で投球フォームは高く、
直球は3球すべて130キロ台。決め球のフォークは、
なだらかなスライド回転でミットに収まった。(読売)

三振をくらった清原はマウンドに歩み寄り握手。
その目からは光るものが…

本来なら横浜スタジアムなのだろうが、
最後の舞台を仙台で、という佐々木の申し出を
当初、監督は受け入れ難いとしていたが、最後は聞き入れたのね。
それに、清原の涙。
浪花節でしたね。

「晩節を汚した」と言われるほどの年でもない佐々木だが、
故障のうえ私生活のごたごたで、最後はメタメタだった。
糟糠の妻を追いやった、なんとか言うタレントも、夫人の座に収まって
夫の最後の試合をグランドで見ていた。
佐々木も「女房と畳は云々」で、乗り換えたんかな?
元妻は、どこかで見ていたのだろうか?

8月9日(火曜日)
●原爆男

にこやかに握手する男2人。
日付は1945年8月9日。
何を隠そう(何も隠しはしないが)
右は、6日に広島に原爆を投下した、ポール・チベッツだ。
左は、9日、長崎に投下してきた、B29「ボックス・カー」の機長「Charles Sweeney 」大佐なのだっ!
ということは、長崎帰りのチャールスをポールが出迎えている図なのだ!!
お互いの作戦大成功を祝して笑顔なのだろう。
テニアン基地から発進したB29は、日本本土を爆撃したあと、
そのまま中国本土へ駆け抜ける。
当時、政府があった「重慶」に着陸したんだろうか?

この2人の男によって、日本の2大都市は熱線で壊滅した。

歴史に「If」は禁物だが、
枢軸国が勝利していたら、トルーマンとこの2人の男は
「人道に対する罪」で有罪だね。

※こういう写真が手に入るところがインターネットのすんばらしさ。
初めて見た貴重な写真であるよ。

これも「ボックス カー」の搭乗員



「ボックスカー」の雄姿。先端に描かれた図柄は「ノーズ・アート」と呼ぶらしい。
これは、長崎爆撃後にペイントされた。
なんせ、「エノラゲイ」とともに、一躍有名機になったからね。

●空蝉

今年もわが家の「金木犀」から、蝉が巣立っている。
まだ、夜の羽化は見たことがない。

枝をバッサバッサと切ってしまったため、
蝉も上の方まで登ってゆかないと葉がない。
だから、なのか。例年より空蝉の数が少ない。

早朝から深夜まで、周囲は蝉の大合唱。
短い命なのだから、うるさいと思ってはいけないね。

●グレー

先日、わが町の町長が町会議員はじめ重職に「宮代町・町長」の名で
出した暑中見舞いが、公職選挙法違反ではないか、と問題になった。
結果が出た。
「違反ではないが、誤解を招く」
町長選は10月に行われる。
「李下に冠をたださず・瓜田に轡を入れず」ということね。

●続ハルマヘラ日記
先日発見した、わが父親の出征地の記録サイト。
制作者にお礼のメールを出したら返信メールが届いた。

ハルマヘラの事は生涯の思い出ですが、
春友会(私達の戦友会の名称・楓4257部隊野砲32連隊第八中隊・
松栄隊100名上陸・戦死者4名・戦病死者3名・復員93名)と申しますが、
現存者は僅か30名になってしまいました。
中略
茨城県筑西市***

もうだいぶ御高齢になるはずだが、インターネットを使いこなしていることがうかがえる。
筑西市とは下妻市などが合併して生まれた新しい市。
「雨引観音」への道すがら、国道50号で通る場所だ。
意外と近くに住んでおられる。
新しい情報が加わったら、知らせてくれる、ということだった。

●解散風一色
小泉パフォーマンスが炸裂し、
昨夜から全てのマスコミは「経過」と「展望」一色に染まっている。
自分の意見が通らなかったら、衆議院解散
自分に反対意見の議員を排除、政党を分裂…
こういう最高権力者が今まで存在しただろうか?
「暴君」「独裁者」でしかないね。
薄情そうな「細目・薄唇」の男の暴挙、愚挙により
かかる選挙費用は概算、どのくらいなんだろね。

この突発事件のお陰で「長崎原爆忌」が完全にかすんでしまった。
広島と同じ惨劇に遭っているのに、長崎はもともと少し影が薄かった。
2番手の悲劇であろうか?
原爆搭載機にしても、広島の「エノラゲイ」は有名だが
長崎の「ボックスカー」はほとんど知られていない。
まして、機長の名前は??である。

読売朝刊を隅々まで見回したが、13版には長崎記事はどこにも
見当たらなかった。

インターネット新聞では
「平和へ祈り、きょう60回目の長崎原爆忌(03:05)」
夜中の3時に更新されている。
わが家は、間もなく新聞配達のバイクの音が聞こえる時刻だ。
これでは、紙で目にすることは不可能だ。

長崎は9日、60回目の原爆忌を迎える。
長崎市松山町の平和公園で午前10時40分から、
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催。
昨年8月から今年7月までに亡くなった2748人の名簿3冊が奉安される。
名簿に載る死没者の累計は13万7339人となる。
伊藤一長市長は平和宣言で、米政府の核政策に対する憤りを鮮明にする一方、
米市民へ向け、核兵器廃絶への連携を呼びかける。
原爆投下時刻の午前11時2分には市がサイレンを1分間鳴らし、市民に黙とうを呼びかける。
(2005年8月9日3時5分 読売新聞)

●60年前:昭和20年8月9日
☆長崎に原爆投下
8月9日午前11時ごろ、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」が
プルトニウム原爆「ファットマン」を投下し、長崎市松山町の500m上空で爆発した。
約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負った。

長崎上空。              B29爆撃機「ボックスカーBock's Car 」クルー


長崎に投下された「FatMan」        テニアン基地の「ボックスカー」


広島に続く、きのこ雲

☆新型爆弾対策

6日に投下された広島への爆弾投下に対し
9日防空総本部は「新型爆弾」対策を発表した。
白衣の着用・横穴壕へ退避などで、原爆の威力からすればお粗末な対策である。

長野か山梨の山中の白装束の集団が話題になったが、
彼らの言い分も「放射能から身を守るため」だった。
似ているね。

☆日本の原爆研究

理研の仁科芳雄らは、広島原爆の投下翌日には,
TNT火薬2万トンの威力と、トルーマン声明からそれが原爆であったことを察知した。
原爆投下後の2日目には仁科博士を中心とする軍部の調査隊が広島に入って、
新型爆弾が原子爆弾であることを確認している。

新型爆弾とされた爆弾の正体が国民に明かされるのは終戦後である。

日本も原爆開発に向けて研究が進められていた。

アメリカによるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年(昭和18年)、
理化学研究所の仁科芳雄博士を中心に開始された。
この「ニ号計画」と呼ばれる計画は小規模なもので、
ウラン235を洗練するにも、プルトニウムを得るにも
十分な設備がなかったとされている。
1945年(昭和20年)のアメリカ軍による空襲で設備が焼失し、
日本は原爆を完成することなく8月15日にポツダム宣言を受諾(無条件降伏)し、
ここに日本の原爆開発は潰えた。
敗戦後、GHQにより、理化学研究所の核研究施設は破壊され、研究は禁止された。

理化学研究所->Click は今も昔も最高の頭脳集団。歴史は錚々たるものだ。

「理研のわかめちゃん」などで知られる「理研」は、「理研食品」のこと。
まるで違う会社ですからね。

☆ドイツからウラニウムを日本に…

「ドイツは崩壊した。彼らは多量のウラニウムを保管していた。
彼らの中の何人かがウラニウムを日本へ持って行くことを考えていたのだ。」
カリフォルニア大学の物理名誉教授ハーバートヨーク氏は語っている。

ドイツのテレビ局Zeit−TVは自決し、水葬された日本人将校について
当時の船員にインタビューしている。「日本人将校は自決する権利を強く主張していた。
多分秘密を守るためだろう。」と彼らは言う。

これは、原爆の原料についての話しだが、ナチドイツが崩壊する寸前に
潜水艦でウラニウムを日本に運んでいた。
航行中に、ナチが崩壊。乗組員は、最寄の連合軍の軍港に行き武装解除せよ、という
命令を受ける。
その潜水艦には、2人の日本軍人が搭乗していた。
日本はまだ、戦争継続中である。
このまま、ウラニウムとともに捕虜になるわけにはゆかない。
それで、自決の道を選ぶ。

吉村昭の小説「深海の使者」が、まさにこの事件を描いている。

☆ソ連軍国境を越え満州へなだれ込む

8日、宣戦布告。
9日、ソ連軍は戦車5000、兵員150万をこえる圧倒的な戦力で満州国へ侵攻した。
満州を防衛していた関東軍は、南方戦線増強のため部隊をすいあげられていて兵力が足りず、
なす術もなく敗走。 
この翌日、日本はポツダム宣言受諾を決定した。
このソ連対日参戦は、満州にいた日本人居留民をまきこみ、
後にシベリア抑留や中国残留孤児の問題を引き起こしていくことになる。
ソ連参戦の報せを聞いた陸軍参謀本部の河辺虎四郎中将は、
この日の日記に「予の判断は外れたり」と記している。
軍上層部は、まさかソ連が、これほど早い時期に参戦してくるとは思っていなかったのである。
しかし、現場からの報告や、軍上層部の日記などを詳細に読み解くと、
ソ連がいずれ日本に宣戦布告してくるだろうと思わせる前兆は、
何ヶ月も前からたびたび見られた。
スターリンの日本を敵視する演説、日ソ中立条約の廃棄通告、
そしてソ連軍の兵器や軍隊の極東への移送。
こうした明確な前兆があるにも関わらず、軍上層部は、
「ソ連の参戦はまだまだないだろう」という根拠のない楽観論に終始し、
有効な手だてを打てないまま8月9日を迎えてしまった。

8月8日(月曜日)
●虎視眈々
ソ連は日本侵攻の機会を窺っていた。
それは、ポツダム宣言前の駆け引きから読み取ることができる。
締結されていた「日ソ中立条約」をいかに破棄するかの方策を模索していたと、読める。

☆ソ連案「ポツダム宣言」
ロシア外務省外交史料館(資料番号639−77−4−9 )非公開
日付:1945年7月26日

体裁:アメリカ合衆国大統領トルーマン、中国総統蒋介石、イギリス首相チャーチル、
ソ連人民委員長スターリン大元帥の四名が
各国のマスコミに対し発表する共同宣言として書かれている。

内容:日本の中国侵略、米英に対する背信的な戦争を、
40年前のロシアに対する戦争となぞらえて非難した上で、
日本に「無条件降伏」を呼びかける勧告文になっている。
※やっぱり、日露戦争の「意趣返し」だったな。

アメリカのポツダム宣言は、天皇制を含め、戦後の日本の政治体制まで言及しているが、
このソビエト案はわずか1ページの簡潔な文章になっている。

しかし当時、ソ連は日本と中立条約を結んでおり、
日本から和平調停の仲介をとってほしいという働きかけを受けていた。

※日本の終戦を巡る、度重なる御前会議で、首相・鈴木貫太郎は、米英への和平工作の
仲介を「ソ連」に依頼していた。
ところが、当のソ連は「ヤルタ会談」密約で、ドイツ降伏後3か月後に
日本へ宣戦布告することになっていたので、日本からの迷惑な「お願い」だったのだ。

日本の指導部は、ヤルタの密約など知らないから、
「中立条約」を締結していた「露助」に、こともあろうに依頼してしまった、ということだ。

そして、明日8月9日、ソ連機動部隊が、モンゴル平原を怒涛の如く国境を越える。
南方戦線に兵力をとられ手薄の日本軍だったが、それだけではない。
すべての武器も劣っていた。

彼らの戦車は、Tiger戦車を擁するナチスドイツ戦で数々の戦果を上げた重戦車。
装甲は厚く、関東軍の火器はもちろん、軽戦車など歯が立たない。
さんざんに蹴散らされてしまうのだ。
以前敗走した「ノモンハン事件」の教訓などまるで生かされていなかった。
「日ソ中立条約」がある限り、彼らは攻めてこないだろうという、
甘い観測だったのだ。

一方、ソ連は、したたかなヒトラーに煮え湯ばかり飲まされていた。
だから、条約破棄など、ヘとも思わない奴等だったのだ。

☆7月13日付、昭和天皇からのソ連への親書

「米英が無条件降伏を迫る限り戦争を継続せざるを得ない」旨を伝えています。
このことから、「参戦前に日本が降伏してしまうと困るソ連は、
あえて日本が飲めない「無条件降伏」という文言を入れた上で宣言案を作り、
いったん日本がこの降伏勧告を拒否した上で、それを理由に参戦しようとしたのでは」
と推理する人もいる。  
これまで、ソ連はこの時点で中立条約が有効であり、
日本と戦争していなかったのだからポツダム宣言に参加していないのは当たり前、
という見方がされているが、
ソ連側の資料で、ソ連がぎりぎりまで参戦の「大義名分」として
ポツダム宣言への加入を求めて「時間稼ぎ」をしようとしていた「焦り」が伺えます。

☆情報戦

日露戦争における、明石大佐の情報戦は有名だが、
大戦末期の軍部の情報収集能力はどうだったのだろうか?
大陸では「**機関」つ〜のが、数多く存在し、それなりの成果を挙げていたらしいが、
欧米におけるスパイ活動は、あまり聞かれない。
※その昔NHKで「私は日本のスパイだった」というスペイン人を取材した
番組があった。彼の情報は途中で握りつぶされ、作戦には反映されることはなかったようだが。

あまり、「戦略」という思想はなく、目の前の「戦術」ばかり考えていたようだ。
だから、「神風特攻」のような非人道的、刹那的、やけっぱちの戦術が採用されるのだ。
「剣」(つるぎ)という、特攻機があったが、金属は最小限、ベニヤの機体だった。
また、先日の、日本初のターボジェット機「橘花」ですら、特攻機だったのだから…

☆再利用

軍部からの数々の要請を短期間で仕上げた技術者の力量はすばらしい。
戦後、しばらく飛行機の開発は禁止されていなかったが、YS−11で花開く。
また、戦闘機で使われていた車輪は、戦後間もなく軽自動車に使われたという。
ダイハツ・ミゼットという、小型3輪車が爆発的なヒットをしたが、
あの車輪も当初は、ゼロ戦に使うはずのタイヤを使っていたのだそうだ。

●潜水艇
ロシアの潜水艇がスクリューに魚網がからまって浮上できなくっていた。
海上自衛隊が現場にかけつけたらしい。
が、その後の働きが伝わってこなかった。
そうこうするうちに、米英が無人潜水機が救助に向かう。
先に現場に着いた英機「スーパー・スコルピオ」が、ロシア海軍と共同で救援作業を始めた。
日本時間7日朝に始まった英国の無人潜水機による救援作業の結果、
潜水艇は同昼ごろに海面への浮上に成功、乗組員全員の無事が確認された。
日本も海上自衛隊の4隻を現場に向かわせていた。
というのが、話しの顛末。

英米露…ポツダム会談の開催国じゃんか。
日本に無条件降伏を迫り、原爆を落とし、北方領土に居座り続ける国々だぜ。

海自が4隻向かったというが、どんな艦艇だったんだろうね。
真っ先に駆けつけた割には、救助用の道具がなくて
米英のやることを、遠巻きに見てたんだろうか?
大国の前で、金縛りにあったようになる、日本らしくていいけどさ。

●60年前
昭和20年8月8日:ソ連が日本に宣戦布告。通告の数十分後一斉に進撃開始
卑怯也、スターリン。
まさか、日露戦争の意趣返しではなかろうな。

☆「日ソ中立条約」
1941年4月13日署名の「日ソ中立条約」により、
日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重し合う義務を負っていた。
同条約はまた、5年間効力を有する旨、及びいずれの一方も有効期限満了の
1年前に廃棄通告をしない場合には、
自動的に5年間延長されたものと認められる旨、規定していた。
1945年4月5日のソ連邦による廃棄通告により、
同条約は1946年4月25日に失効することとなった。

しかし、国と国の約束など簡単に反古にされる。

☆ソ連、一方的に破棄
8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、ソ連外務委員モロトフから、佐藤大使に対して、
宣戦布告が手交され、大使は直ちに東京に電報したが、この公電は日本に到着していない。
この内容を、東京の日本政府がソ連側から正式に言い渡されたのは、
8月10日午前11時15分〜12時40分。
東郷茂徳外務大臣に対してソ連マリク大使から言い渡された。

☆連合国の戦争処理会談
日本の負け戦が予測できるようになった段階で、連合国首脳による国際会議が開催されていた。

「カイロ会談」1943年11月:ルーズベルト、チャーチル、蒋介石
要求項目:日本が第一次世界大戦で得た海外領土の放棄、台湾・満州などの返還、朝鮮の独立

「ヤルタ会談」1945年2月:ルーズベルト、チャーチル、スターリン
ドイツの最終作戦と同時に、秘密協定としてドイツ降伏の3ヵ月後にソ連の対日参戦が決められた。

「ポツダム宣言」1945年7月:トルーマン、チャーチル、スターリン
日本に対する無条件降伏の勧告宣言。軍国主義の絶滅、領土の削減、連合軍による占領を規定。
日本は当初は無視。広島・長崎に原爆投下。ソ連参戦。
御前会議で受諾決定。8月14日に連合軍に伝える。
※ポツダム会談はベルリン郊外のポツダムで、トルーマン、チャーチル、スターリンの
3巨頭が会談を開き決定したもので、蒋介石の同意を得て、米・英・中の3国共同宣言の形で
発せられ、のちにソ連が日本に参戦して、これに加わり4国共同宣言となった。

というわけで、「ヤルタ会談」の秘密協定により、
ソ連の駆け込み的な「戦勝国」の仲間入りによって、
「日ソ中立条約」の効力があったにも関わらず、これを反古にして
「死に体」の日本に宣戦布告をした。
卑怯な彼らによって占領された「北方領土」は、今だ返還されていない。

五味川純平原作:映画「人間の条件」の最終シーンは、
満州へ怒涛の如くなだれ込むソ連軍を迎え撃つ若き日の仲代達矢がいる。

「さまざまなポツダム会談」

円卓を囲んで、戦勝国の分け前を討議する。中央の白い服のスターリンが曲者。


会議場の入口で。浮かれ気分のおっさんたち。


左がおなじみの写真。右は、あら?チャーチルがいない。途中からアトリーに変わったんだぜ。

8月7日(日曜日)
●新名所

渋谷に国内4店目となるアップル直営店「アップルストア渋谷」が昨日10時オープン。
夏休み中の土曜日ということもあり、真夏の太陽が照りつける公園通りに2000人以上が列を作った。
場所は、JR渋谷駅のハチ公口から徒歩5分程度、
渋谷Loftのはす向かいという好ロケーション。
人気のiPodに新事業の音楽配信で上げ潮ムードのアップル。
若者の町、渋谷にはピッタシだろう。
宮代から、JR使えば行きやすくなったとはいえ、時間がかかるもんね。
雰囲気は違わないだろうから、大人はアップルストア銀座ですね。

●60年前
昭和20年8月7日。

日本初のジェット短距離爆撃機「橘花」が試験飛行に成功。
貴重な実写はこっち->click

「橘花」(きっか)は、わが国が第2次世界大戦中に完成した唯一のターボ・ジェット機。
昭和19年9月同盟国ドイツから潜水艦で
Me262双発ジェット戦闘爆撃機の資料を持ち帰ることに成功した。
11月、この資料をもとに海軍航空技術廠は中島飛行機に開発指示を行う。
昭和20年4月国産ジェットエンジン「ネ20」が完成。
この年に入るとB29の本土攻撃が熾烈になり、航空機製作工場も大打撃を受ける。

「橘花」は、本土に接近してくる敵戦艦を陸上基地から攻撃する
特殊攻撃機として開発する構想が決定。
海軍の期待も大きく、最優先生産機として開発は急ピッチで進められた。
試作1号機の完成を待たず25機の初期生産が行われていた。

だが、生産拠点の中島小泉工場は昭和20年3月、B29の空襲で壊滅状態になる。
(東武小泉線の終点ですね。いま、ブラジル村のあるところ。富士重工が昔の中島飛行機)
群馬県下に散在する農家の養蚕小屋に分散疎開して生産する有様だった。
しかし、6月末、第1号機が完成。
7月、木更津基地で地上試験が始められ、8月7日に初飛行に成功する。
第2回の試験飛行で離陸事故を起こす。
2号機の準備を始めたが、4日後には終戦を迎える結果となった。
終戦当時、約20機が組み立て中であったが、量産が数ヶ月遅れたため、
全く戦力にはならなかった。


愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2477人が即死



※豊川海軍工廠模型

豊川海軍工廠は日本海軍の機銃弾丸、光学機などを製造していた工場で,
棟数700,最盛時の工員は5万6000人を数えた。
戦争末期の兵力不足による学徒動員や女子挺身隊の動員により多くの若い人たちが働いていた。
1945年(昭和20)8月7日,マリアナ諸島のサイパン島イスリー基地を発進したB29爆撃機124機が,
熊野灘から志摩半島をかすめ豊川市上空に達した。
市域一帯に空襲警報が発せられるが,B29爆撃機10機編成の12波に及ぶ爆撃が26分間続き
250kg爆弾3,256発が投下された。この日の爆撃による死者は工廠外において犠牲になった
八南国民学校の1年生をはじめ,一般の人々を含めると3,000人に近く,
負傷者は1万人以上であった。そして,わずか1週間後の8月15日終戦を迎えることとなる。 

8月6日(土曜日)
●花火
早めの夕食は、花火見物のためだった。
打ち上げ場所は、東武動物公園のボート池。
つ〜〜ことは、マストポイントは農の家の駐車場。
昨年もそこで見た。
そこはわが家から3分。
19:05のスタートかと思ったから19:00に
「子の子」と愛犬ジョンを連れて出かけた。
レジーナはライトアップされていた。
観客は1組。
彼に聞くと19:30分からという。
家に戻り椅子を持ってくる(これも昨年と同じ)

※はじめチョロチョロ。終わりパッパ。カメラがカメラだからこれだけ撮れれば充分。

G−MAXとレジーナの照明が消えた。
ドンドンパチパチドッカーンと派手に始まった。
昨年とは異なる種類が打ち上げられた。
周囲は田圃だから、途切れると一瞬の闇。
花火会場に適しているね。
アーとかオーとか、夜空の美しさに感嘆していると、
いつもの有終の美を飾る、乱れ打ち。
あっけなく25分のショーは終わった。
観覧者10組以内。穴場である。
隣の若者が話してくれた。
「今夜のテーマは宇宙、来週は愛…」
ふ〜〜ん。
8月は週末に4回やるはずだから、
まとめて休むあてもなし。
全てのテーマを踏破しましょうかね。

●坂東太郎
国道4号バイパスを走れば「坂東太郎」に当たる、と言ってもいいほど。
茨城が本店のこの店は、栃木、埼玉、千葉に多店舗展開している。
よく目立つ和風の派手な造り。
岡泉から梅田に抜ける道の内牧地区に、2〜3年前春日部店がオープンした。
開店時に1度顔を出したことがあったが、
外観がデ〜ハな割には、料理が反比例していたのでそれきりだった。
が、本夕刻、久しぶりに「子の子」を連れて、行く。
杉戸方面は、東武動物公園の花火や古利根の灯篭まつりがあるので
混雑することが若っていたので、敬遠した結果である。
18時前だったので、6分の入り。
「なんとか御膳」を注文したが、なかなか出てこない。
実に遅い。
「とんでん」や「華屋与兵衛」なら、8割方食べ終わっている頃に、
それはやってきた。
お茶2杯、たばこ3本消費した。


げげっ!大袈裟な衣装を身にまとっていた。
お膳がザルに乗っていた。
猿芝居の衣装のようだ。
食べにくい。
小皿の数は多いが、どれも魅力に乏しかった。
値段は、建物に比例していた。
再び、訪れることがあるだろうか?
近くの「うどん市」にすればよかった。

いつの間にか満席である。
しかも、待つ人多し。
店内は、俄然騒々しくなった。
2世代、子連れ。6人程度という客が多い。
夏休みの土曜日。一族打ち揃って来たのだ。

建物と盛り付けの無用など派手さつ〜のが
茨城、栃木、埼玉界隈では好まれるのかな?
そういえば、東京、神奈川には出店していない。

●灯篭流し
 
宮代と杉戸を分ける古利根川で、恒例「灯篭流し」が今晩、明日開催される。
「灯篭流し」じゃなかった。「流さない」ので。「灯篭まつり」ね。
駅前の橋から下流の清地橋まで、灯篭が係留されている。
両サイドの護岸工事も行われ、今年の夏は川のほとりまで降りて観賞できる。
今夜は、東武動物公園の花火も開催。
これから、この界隈はサマーイベントで忙しくなる。

●町長の失敗

わが町の町長が、暑中見舞いでミソつけた。
新聞報道によると、公費で議員や町の重職に暑中見舞いを出した。
そこに「宮代町 町長」と記した。
10月に町長選を控え、公職選挙法に抵触するのではないか、という判断。
町長は、末文に「宮代町」だけではあまりにも失礼、
そこで、「町長」と付け加えたという。
名前じゃなくてよかったが、時期が悪かった。

こんなことで、足をすくわれてはたまらん、と
ケアレスミスを反省することしきり(かな)。

●60年前
昭和20年8月6日午前8時15分。
広島に原爆投下。
熱戦と衝撃波によって市街は壊滅し、約14万人の死者を出した。
その後、原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上
黙祷

広島市上空で炸裂した世界初の原子爆弾「リトルボーイ」と同型
 
原爆搭載機「エノラ・ゲイ」と機長(ポール・ティベッツ)90歳で存命

爆心地(相生橋)上空

 


元安川に映し出された被爆前の原爆ドーム。2005.08.05 21:54


投下直後1時間以内に日本人により撮影された写真。(撮影者:よしもと・まつしげ氏)
御幸橋の西側で応急手当が始まった。多くは広島女子商業高校、広島第一中学の生徒


被爆60年、「原爆の日」 広島で平和記念式
広島市中区の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」(平和記念式)が開かれ、
約5万5000人が参列した。

8月5日(金曜日)

●SNS
Social Networking Serviceについて調べてみた。
「友だちの友だちは、みな友だちだ」という
「笑っていいとも」の乗りで、知り合いを増やしていくシステムらしい。
そこでBlogを公開したり、スケジュールを共有したりして
グループの交流を図る、というもの。
こういうサイトは有名どころが1つ2つ。
あとはどんぐりの背比べ。
新しいビジネスチャンスを目論み生まれては消えてゆく。

友だちの輪が鼠算のように増殖すると、どうなるか?
顔を合わせたことのない人たちが、
誰々さんの遠い遠い友だちということになる。
SNSという、目新しい概念を身にまとった「出会い系サイト」に堕ちる。
女性には、お茶しよう、合コンしようというのはましで、
「セフレ」になって、というものまであるらしい。
「ん?セフレ?新しいお菓子かいな?」と思ったら
「セックス・フレンド」のことなんだって。
「1発や**て」に比べ口あたりのいい言葉である。
水心、魚心、下心…の連鎖が見え見えで、そこから抜けていった女性も多いとか。
実名で参加するがルールだが、それも守られていないらしい。

学生時代の仲間や、地元のサークルで利用できないかと思って調べ始めたのだが、
そこまで、ネットワーク社会にのめりこむ必要もないのでやめた。

●突然死
水から上がった蛙が白い腹を日に焼いている。
足の組み方など人間そっくり。
などという平和な光景ではない。

玄関先のコンクリートで、プスッと小さな破裂音がした。
見ると、小さな青蛙だった。
なんでそんな所にいたのかね。
ドアを開け、1歩踏み出したとたん、私が踏み潰してしまったのだ。
即死。
最近、殺生はしないのだが、
可哀相なことをしてしまった。

子供の頃は、稲の細い茎、ストローですね。
これを蛙のケツに突っ込んで膨らませて遊んだことがあったが…


今夜、9時から、あの「火垂の墓」が放映される。
紹介していた男性穴は、タイトルを見ただけで泣けてくる。
もう一人は、最後まで見られない…
とコメントしていたが、みんなそうなんだ。

秋には、ドラマ化された「火垂の墓」が放映されるという。

●大言壮語
テレ朝の国際水泳が終わったと思ったら
今度はTBSで世界陸上である。
北京五輪への試金石。
100mでは暁の特急「吉岡りゅうとく」以来の逸材と言われながら
本番では成績が残せない「末続」である。
だが、言うことだけはでかい。
今度も、得意と自他共に認める100mをドタキャン。
200m1本に集中するという。
またまた、肩透かし。
国内の100mをトップで駆け抜けるときの
あの、得意げなポーズが厭味に見える。
内弁慶なんだな。
国際大会で、あのポーズが見たいぜ。
無理とは思うが。
選手層が薄いので、つい、彼に目がいってしまう。
彼も、不幸…か

8月4日(木曜日)

●来日
Appleのボス、スティーブ・ジョブズが来日していた。
新しいiMacシリーズや新型マウスのデモのためではなく、
いよいよ日本で立ち上げる、音楽配信事業のプロモーションね。
発表会見だったが、相変わらず彼の人気は高く、壇上に現れると拍手。
彼、お得意の新マシンを自ら操りデモを行う。
そして、新事業の話しに及ぶと、さらに大きな拍手が起こったという。
  

その昔、Appleを追われた彼がNextという
ワークステーションビジネスに参入したとき日本にデモにやってきた。
それを見に行ったことがあった。
同じように、彼が姿を現すと、割れるような拍手だったことを思い出す。
あの日から何年たったかな?彼はずいぶんふけたね。

で、このニュースが各サイトに、どの位のスピードで掲載されたか。
朝、毎、読といった日刊紙系のサイトは軒並み掲載されず。

インターネットウォッチ、ITメディアニュース、CNET JAPAN
などのITポータルも1拍遅れの掲載。

一番光っていたのが、夕刊フジBlogだった。
ここの記者は、現場から会場の様子を刻々と伝えていた。
10時から始まった会見で、10時20分には1報が掲載された。
38分には、音楽事業のあらましがわかった。
htmlだの自社サーバだの制約がないBlogだから、
会場から無線LANで、ジョブズの話しのきりのいいところで、送稿したのだろう。
ジョブズは英語でスピーチするから、それを翻訳しながらタイプするのは大変だ。
さらに、それを記事型式にまとめなければならない。
デジタルレコーダを使っても同じだろう。
2人チームで事に当たったのだろうか。
とにかく、夕刊フジBlogの記事が速かった。
Blogはこれからの速報記事のありかたを示唆しているようだね。

●本気?
昭和19年の本日、閣議で「国民総武装」を決定した。
サイパン島玉砕の責任をとり7月に総辞職した東条英機内閣にかわる小磯国昭内閣である。
戦争は兵隊だけにまかせず、銃後の守りも武器を取れ!というのである。
本土決戦を視野に入れたものと思うが、
その武器が「竹槍」というのだから、悲しさを通り越して空しさ横溢。
もんぺ姿の女性、老人が校庭に集められ
軍事教練の教官が壇上に立ち号令をかけると言うのだから正気の沙汰とは思えない。
竹槍は江戸時代、関八州のやくざの喧嘩だぜ。
これで、近代武装の米軍と渡り合えると本気で思っていたのなら噴飯ものだ。
指導部の認識の甘さ、ここに極まれリ。
9月には17歳以上を兵役に就かせる。10月、神風特別攻撃隊初陣。
11月、サイパンからのB29本土攻撃開始。12月、B29の東京初空襲。

日清戦争、日露戦争で手に入れた権益が、がらがらと音をたてて崩れてゆくのだよ。
ったく、ご先祖様に申し訳の立たない愚かなことをしでかしてくれたものだ。

昭和19年8月4日、欧州ではアンネ・フランクの一家が
ナチスの秘密警察ゲシュタポに逮捕されております。
そして、アンネが強制収容所の露と消えたのは、
昭和20年3月31日だった。

8月3日(水曜日)
●だれ猫

夜になっても暑いのでだれきっている、わけではない。
室内の明かりを求めてやってくる
窓の向こうのヤモリを待っているところなの、であるよ。
早く来すぎて、ひまを持て余している風情かも。

●ばて猫
「化け猫」じゃないよ。

「恋人も濡れる街角」
「猫もばてる室内」

●ハルマヘラ
インドネシアにハルマヘラという島がある。
昔セレベス、今スラウェシのすぐ下にある、アルファベットの「K」のような形の島だ。
私の父が、出征していたのはこの島だった。
俳優の池部良氏もこの島におり、彼は本を書いている。
父親の戦場とはどんなものだったのか興味があって
以前、図書館で借りて読んだことがあった。
しかし、名うてのエッセイスト池部氏であるが、
下士官として赴任した話しで、島の状況はよくわからなかった。

「ハルマヘラ日記」というWebSiteがあった。
兵隊として過ごしたことが書かれた絵日記だった。
絵筆が達者であった。
最後に復員のことが記載されていた。
南方の兵隊さんは比較的早く帰国できたようなのだが、
父がどのように祖国の土を踏めたのかも大きな関心事だった。
たぶん、この日記に書かれている船で父も生還したのだと思った。

それによると、
昭和21年
5月26日、乗船地「ペテワン」復員船は「リバティ型」というから、
戦勝国の船なのだろう。乗船荷物検査は若い豪州兵が行った。
5月27日、北北西に進路
5月28日、船上で演芸会
6月03日、終日暴風雨
6月04日、日本見える。四国室戸沖。紀伊水道を北上
      目的地、和歌山県田辺港
6月05日、船上で復員式
      看護婦よりDDTの粉をかけられる
6月06日、入港、タバコ、ヨーカン特配、畳の上で1拍
6月07日、復員列車で故郷へ出発
父は、東海道線で東京へ、そこから省線で上野へ。
高崎線で熊谷へ。バスに乗り、利根川を渡り、疎開先で妻と子(私だよ)の待つ
群馬県邑楽郡永楽村赤岩へ舞い戻ったのである。
ごくろうさまでした。

●MightyMouse

Appleのマウスは1ボタンという常識が崩れるときがきた。
(もっとも今はWindowライクな2ボタンも使えるけどね)
新発売の「MightyMouse」は一見1ボタンだが、4ボタンの働きをする。
価格は5670円。
従来、ワークステーションでは4ボタンで複雑な操作が可能だったが
PCは2ボタン+ホィールが一般的になっている。
新型光学マウスはMacとWindows XP、2000で使えるが、
機能の全てを使うにはMac OS X 10.4.2以降。
iBookやiMacによくマッチするように乳白色のボディカラー。

PowreMacG5のようなプロ仕様は
今となっては必要ないけど、「i」シリーズはそそられますね。

●破局への道
昭和19年の今日は
テニアン島の戦いが終結。日本守備隊約5千人が全滅。
マリアナ諸島全域における日本軍の抵抗が終了 。

すでに戦況はこんな状態だった。
それなのに、大本営は負け戦の事実を国民にひた隠した。
1年後、テニアン島からB29<エノラゲイ>が飛び立ち広島へ原爆を投下する。
そして、長崎にも…

昭和20年の今日は
米軍が、B29による機雷敷設で日本の港湾と内海航路を完全に遮断したと発表

制海権を完全に封鎖された日本軍は、もう袋の鼠。
猫が弱った鼠をいたぶるように、じわじわととどめにかかる。
米軍が、どこから上陸するのか…
九州説、関東九十九里説などがあったが、沖縄を島伝いに北上する作戦だった。

上陸した米軍を迎え撃つ日本軍は敗走に続く敗走。
そこで、一般市民に対する軍人の理不尽な行動が起こる。
鬼畜米英ならぬ、同胞に対する鬼畜行為だ。
「餓島」では、人肉をくらって生きながらえた奴もいたが
沖縄では守るべき軍人が女子供を盾に敗走していたのだ。
断末魔となると、こういうことが平気で行えるようになるのだろうか。

ナチスドイツの最期。
ヒトラーは国民を見捨てて自殺。
総統地下官邸で、酒くらい女を抱き自暴自棄になっていたエリート軍人もいたけどね。


テニアン島(Tinian)は、現在アメリカの自治領、北マリアナ諸島を構成する島の一つ。
面積はおよそ100km2で、サイパン島から約8kmの距離にある。
サイパン島などと同様、スペイン、ドイツの支配を経て第一次世界大戦後に
日本の委任統治領となった。
日本の統治下では大正末期に沖縄などから移民を送り、
大規模なプランテーションによる砂糖の生産が行われた。

太平洋戦争中は同島の島北部に当時、南洋諸島で一番大きい飛行場である
ハゴイ飛行場があったことから日本軍の基地となり、
米軍は同島の戦略的価値の高さから1944年7月24日に北部のチューロ海岸から上陸、
8月2日に同島を占領した。

マリアナ諸島は、1521年の発見以後スペイン領であったが、
米西戦争によってグアム島が1898年にアメリカ合衆国に割譲され、
残る島嶼もドイツへ売却された。売却額は2500万ペセタであった。

1914年、第一次世界大戦が勃発し、連合国側についた日本軍は
ドイツ領マリアナ諸島に侵攻し、実効支配下に置いた。
戦後発足した国際連盟によって、マリアナ諸島は日本の委任統治領と認められ、
サイパン島を中心に日本人による殖産興業が進められた。

その結果、サイパン島、グアム島、テニアン島は太平洋戦争中、
戦略上の要衝として、多くの民間人を巻き込んだ地上戦の舞台となった。
またアメリカによる占領後のサイパン島、グアム島、テニアン島は
日本本土に対する戦略爆撃の基地として利用された。

現在、グアム島はアメリカ合衆国の准州、北マリアナ諸島は同国の自治領。
人口は2000年の調査では、グアム島が154,805人、北マリアナ諸島が69,221人
(うちロタ島3,283人、ティニアン島3,540人、サイパン島62,392人、北部諸島6人)

現在は観光地となって、日本人も多く訪れるが、サイパン島の「バンザイクリフ」の悲劇を
知っているのだろうか。

●泥仕合
杉田かおるが舌好調である。
芸能界で注目を集め続けるためには
自分のプライバシーをあそこまで切り売りしなければいけないのかも知れない。
が、あれは彼女の「芸風」なのだ。
今度は、夫君の女性関係をべらべら暴露しはじめた。
夫君は名誉毀損で訴える。
ここまでくると、お互い「引っ掻き合い」の状況だ。

若貴騒動が、嘘のように静まって、次のネタは…と思ったら
格好の獲物が飛び込んできた。
「旬」のネタだから面白がって、行き着くところまで晒すだろう。
江戸の昔なら、市中引き回しの罪人のようにね。

しかし、この女、サービス精神が旺盛なのか、懲りませんね。
よ〜しゃべる。
カメラがアップで捕らえると、肌荒れが目立つ。
自分が商品なのだから、もっと手入れをしなくてはいかんでないの。
あるいは、鮫肌系の女で、夫が一番嫌う女体だったりして…

8月2日(火曜日)
●Fujiのデジカメ

有効903万画素で、光学10.7倍ズームレンズを搭載した
レンズ一体型のデジタルカメラ「FinePix S9000」を、
8月下旬より発売すると発表した。
価格はオープン。予想実売価格は8万円前後となる見込み。
デジタル一眼レフが市場を動かしつつあるというのに、
Fujiは、あえてここを避けるかのような商品を発表した。
一見、デジタル一眼だが、レンズ交換ができないので「レンズ一体型」となる。
価格も、他社デジタル一眼と競合する。
搭載するワイドズームレンズは、35mmフィルム換算で
焦点距離28mm〜300mm相当するというから、
これ1本でほとんどをカバーしてちょうだい、というのだろうか?
コンパクトデジカメはオードズームだが、当然だがこれは手動ズーム。
フォーカシングが迅速に行える。
液晶モニターには1.8型低温ポリシリコンTFTカラー液晶モニター。
今となっては小さい画面だ。

1眼レフの楽しさはレンズ交換にあると思うのだが
だいたいズーム1本だけのユーザが多い、とでもいう調査結果があるのかな。

限りなくデジタル一眼に近づいたレンズ一体型だが、
ここまでやるのなら、デジタル一眼にしてもよさそうなものだが。

●視点122号
表面は興味をもって拝見。
K議員のリポートは10月2日の町長選に向け
4期目を狙う榊原陣営の支援団体を解説する。
町の統計では
人口34316人。12,677世帯。(2005/07/01現在)
有権者人口は27,932名

この票田をがっちり押さえるのが「さかきばら一雄を育てる町民連合」。
町内最強にして最大の政治組織だそうだ。
町内を18ブロックにわけ、ブロック長、支部長、副支部長、地区役員、幹事…などで構成。
これらをとりまとめる本部役員はブロック、支部から抜擢された10人以上の副会長。
事務局には10数名。
これら役員は町の有力者がぞろぞろ顔を連ねているという。
まさに、蟻も這い出る隙もないという磐石の体制で臨むという。
例えば本田ブロックのH地区の組織率99%!
102世帯中100名が会員というケースもあるそうだ。
組織率の低いのは、桃山台4%、姫宮南団地6%、姫宮北団地10%、
宮代台8%、学園台12%。
戸建団地の新住民は軒並み低いが、土着人口が多い地区は70〜80%の高組織率だそうだ。

テレビで、例えば高速道路建設で町や村を2分した大騒動が伝えられることがある。
親子、親戚で意見が正反対というところなど、食事やよりあいでも疑心暗鬼。
宮代町は江戸の昔から将軍家の穀倉だから、
町制以降、新住民が流入してきたとはいえ保守本流ですね。

地元出身の町長が、幼馴染や地縁、血縁を母体に着々と蜘蛛の巣を広げるように、その網を広げてゆく。
政治好きの古老は
「カズちゃんなら、子供の頃から知っているし、勉強ができてまじめでね〜。
ちょっと覇気に欠けるけど、ああいう人物にまかせておけば、この町も間違いないよ」
「新しく入ってきた連中は、改革などと叫んで、何始めるか心配だし、
どこの馬の骨かもわかないしね」などと、四選のために手を貸すのだ。

選挙事務所には大きな「こもかぶり」が並べられ
片目の入った大きなダルマが据えられ。
夕方には、1杯飲むのを楽しみに、支援者というじいさんたちが陣取り…

選挙では、どこの誰ちゃんは入れなかった、とまでわかってしまう、という
話しまで聞こえたりする。

対抗馬の話しはまだ入ってこない。
また「無風」ということもあり得るのか?

K議員は「無投票選挙は町民の選択権を最初から取り上げてしまうことになるのですから」と
書いているが、強力な対抗馬が現れない限り、
「町民の選択権を最初から放棄」することになる。
だれかに白羽の矢を立てているのかな。

ローカルな町つ〜のは、「祭り」と「選挙」が好きなもんです。
若い連中が立ち上がらないと、いつまでたっても
古老という顔役が牛耳っております。

●戦後60年
10年前、敗戦後半世紀。きりのいい「戦後50年」特集が
今年くらい賑やかにマスコミで扱われたかどうか、おぼろである。
わが家は、じいちゃんの昔から「読売」だが、
「戦後60年」連載が続くし、テレビも特番が多い。
本日21時から日テレで「終戦60年特別ドラマ・24の瞳」が放映される。
これは、「敗戦」物ではないと思うがね。
敗戦物なら沖縄の悲劇「ひめゆりの塔」とか、特攻学徒の「雲流るる果てに」だろう。
「24の瞳」は、1952年(昭和27)に発表された壺井栄の小説で、
舞台は昭和3年の小豆島だ。
昔、高峰秀子が主演した映画を学校から見に行ったことがある。
平和を願う気持はわかるが、
「終戦60年特別ドラマ」ではタイムラグがあるのでは?
敗戦前後の緊迫した時代、
「はだしのげん」「火垂の墓」を再上映したほうがよかったな。
あの、無頼派にして、今療養中の「野坂昭如」の作品とは思えない
みずみずしく、切ない物語だ。
いつ見ても泣けてしまうのだ。
アニメだからいいのかもね。
これが、実写だったら悲惨すぎる。

戦後60年物ではないが、読売では「時代の証言者」を連載している。
前回は「兼高かおる」で、今回は「阿久悠」だ。
そこに、現代の東京への感想がある
「焼け跡闇市よりさらに荒廃したガラスの林とアスファルトの谷間で、
人間はすべて迷子になる。そこにいる意味と、明日を迎える楽しみと
未来を考える生きがいと、そのすべてをなくして」

戦後の荒廃と、経済成長により変貌した東京への思いだが、
昭和20生まれも今では還暦。
もっと新しい人種、20歳くらいの連中は、今の東京しか知らない。
近未来小説に描かれる、もっと進んだ都市には共感できても
過去に思いをはせるなんてことは、あまりしないのだろうか。

だが、ドライで脆弱とも思える携帯文化が進んだ今も、
戦前戦後の市井の人間関係を描いた
小津安二郎映画が再評価されたり
「純愛」ものがネットから生まれている。
どこかで、根源的な人と人のコミュニケーションを欲しているのだろうね。

これも、読売の婦人欄だが、
携帯電話が普及し、駅の伝言板が利用されなくなった、という。
私はここに書き込んだことはないが、
昔は、さまざまな約束が飛び交っていた。
だが、待ち合わせに携帯は、「超」便利。
すれ違いということはないのだから。
しかし、「会えるか・会えないか」という不安要素の入り混じった約束が
出会えた時の喜びを増幅させるのではかいか、と思うがね。

8月1日(月曜日)

●夏ばて
昨夜は宮代インターネット研究会の「暑気払い」。
地元の店でわいわいやったあと、カラオケへ。
家人から帰宅が3時近かった、と言われ、そんな遅かったかな?と
楽しく遊んだ翌日、体調を壊すなど最低だが、しょんない。
ただ言えることは、若者たちと同じ気分でノリノリは、やばい、ということだ。
これからは、自分の歳を、しっかり頭に刻み込んでおかないとね。
※そんなもんで、1日は、気力減退。このページの8月更新が遅れてしまったのね。
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